それは、ある休日の一本の電話から始まった。
―熱に浮かされ―
平和に静かに過ごしていた日曜の午後、やりかけのゲームに手を伸ばしたその時、ベッドの上に放置していた携帯電話が鳴り響く。
買ったときのままのデフォルトの着信音が数回鳴ったところで、それがメールではなく電話であることに気が付いた。
仕方なしに腰を上げて、携帯電話に手を伸ばす。
それを手に取り引き寄せてみれば、そこには見慣れた文字の羅列。
ため息をひとつ吐き、俺は通話のボタンを押し声を発した。
「…もしもし」
聞こえてくるであろうその電話の主の声を待つ。
どうせまたテニスの相手をしろだの暇だから構えだの言うに決まってる。
そう思って電話に出たが、相手の反応は返ってこない。
「…ちょっと…切原さん?」
名前を呼んでみてもいつもみたいな元気すぎる声は返ってこない。
その代わりに、絞りだすような弱々しい声で一言だけ言うと、通話は切れてしまった。
「ちょっと!切原さん!?切原さん!!」
ツーツーと無機質な電子音がむなしく続く。
背中を、冷たい汗が伝うような気がした。
「…嘘だろ…?」
俺はとりあえず必要なものだけを持ち家を飛び出した。
電車に飛び乗り目的地を目指す。
その間も、たった一言だけ聞こえた言葉を何度も反芻して、拳を握り締めた。
『俺…死ぬかもしんねぇ…』
「そんな…バカな…」
あんなうるさいくらい元気な人がそう簡単に死ぬものか。
そう自分に言い聞かせても、いつに無く弱々しいあの人の声を思うと不安がつのる。
「生きててよね…っ」
そう呟きながら、駅からあの人の家までの道を全力で走った。
家の前にたどり着き、インターホンを押す。
しかし反応はない。
無我夢中で来てしまったけれど、電話は携帯から掛かってきた。
家に居るとは限らない。
何度か押してみてもやはり同じ、俺は意を決して扉に手を掛けた。
不用心にも玄関の鍵はかかっておらず、容易に中に入れた。
しんと静まりかえった家の中、あの人を呼ぶ。
「切原さん…?」
が、やはり反応はない。
そっと、足を踏みだして奥へ進む。
何度か入ったことのあるリビングの扉に手を掛けて、恐る恐るそれを開ける。
すると俺の目に飛び込んできたのは、探していた人の姿。
ただその様子を見て、血の気が一気に引いていく。
床に伏した微動だにしないその人に俺は慌てて駆け寄った。
「切原さん!!」
「いや〜マジ助かった。」
「何考えてんのアンタ!紛らわしい電話してきて…ホント信じらんない」
「俺はマジで死ぬと思ったんだって!」
俺が作った、というより温めただけのインスタントのお粥をへらへらと笑いながら食べてるさっきまで床に突っ伏してた人。
それが今は信じられないくらい元気なわけで、本気で心配して慌ててた自分がちょっと恥ずかしい。
夜寝ている間に熱が出たこの人は、起きたときには家族が誰もおらず空腹で部屋から出てきたところで力尽き電話を掛けてきたらしい。
とりあえず部屋に押し込んで、この家にあったレトルトのお粥を作って渡してやれば、彼は病人とは思えない勢いであっという間にたいらげた。
「でもまさか、お前があんなに急いで来てくれるなんてな。」
「そりゃ…いきなりあんな電話掛かってきたら…」
「俺愛されてんだな〜」
「うるさいよっ!もう寝れば!?」
手近な所にあった枕を思い切り顔に押し付けてやると、ぶっと間抜けな声を出す。
「ひっでぇ、俺病人なのに〜」
「病人なら病人らしく大人しく寝てれば!?」
空になった器を持って、俺は部屋を飛び出した。
熱く火照った自分の頬に手を当てて、唇を噛み締める。
最近の自分は、悔しいくらいあの人に振り回されてばかりだ。
自分がこんなふうになるなんて思っていなかった。
いまだかつてない感情の変化に、俺は戸惑ってばかりだった。
台所に立ち使った道具を洗い、片付ける。
乾燥機の中に食器を並べてスイッチを押すと、その音だけがリビングに響いた。
一息吐くと、途端に1人残してきたあの人の事が心配になる。
そういえば、風邪を引いたとは聞いたけれど食事の用意に気をとられてどれくらいの熱があるのかは聞いていない。
俺はもう一度、彼の部屋へと足を向けた。
「…切原さん?」
部屋に入ると彼はこちらに顔を向ける。
「ああ、洗い物してくれたんだ?ありがとな。」
捲ったままだった袖を見て、切原さんは笑顔を見せる。
その顔は赤く、元気そうに見えていたけれど、やはり体調が悪いのは本当なのだと感じた。
「ねぇ…熱は計ったの?」
「ん〜まあ…起きた時に。たぶん下がってるとおも」
「何度?」
「……38.5…」
「はっ!?」
駆け寄って額に手を当てると、予想以上の熱が伝わってくる。
これは彼が計った時よりさらに上がってるんじゃないだろうか…。
俺が思っていたよりずっと、彼の体調は悪かったらしい。
「薬は!?病院は!?」
「飲んでねぇ…つーか、何処にあるのかもわかんねぇ。さっき起きたんだし…それに病院今日日曜だから」
「バカじゃないの!?」
慌てて財布を持って、家を出た。
思わず飛び出したものの、知らない町でどこに何があるかよくわからず、とりあえず商店街を探して走りだした。
道行く人に尋ねながらようやく薬局にたどり着き、風邪薬を買う。
その帰り道、ふと威勢の良い声が耳に入った。
声がするほうに振り返ると、綺麗な赤が目に入る。
俺は何となく、その店に足を向けた。
「切原さん」
声を掛けると、彼は閉じていた目をうっすらと開けた。
「あれ…リョーマ?帰ったのかと思った…」
「あのまま放って帰るわけにいかないじゃん…ほら薬。」
差し出した薬を受け取ると、少し渋い顔をする。
「えー……薬か……あんま好きじゃねぇんだけど」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ」
「お前、これ買いに行ってたのか?」
「そうだよ。家の中俺じゃよくわからないし。…あと、これ…」
買い物袋から取り出したそれを見て、彼は目を丸くする。
見た目にも甘そうな赤い林檎をまじまじと見つめて、俺の顔に視線を戻した。
「ちょうど、通り道に売ってたから…ちゃんと薬飲んだら…剥いてあげる。」
「今日、優しいじゃん」
「…うるさい」
自分でもわかるくらい、赤くなっているであろう俺の顔を見て上機嫌になった彼は、いそいそと買ってきた風邪薬の説明を読む。
その間に俺は用意していた器に剥いて切り分けた林檎を並べておく。
いつの間にか薬を飲み終えた切原さんは、それを興味深そうに見つめた。
「上手いもんだな。なぁ、ウサギは出来ねぇの?」
「…文句言うならあげないよ」
「いやいやいや、文句じゃねえって!食う!ちょーだい!」
身長差のかなりある俺では腕を一杯に伸ばしても彼の腕の長さには足りない。
頭上に高く持ち上げた皿から、彼は身を乗り出して軽々と切り分けた林檎を1つ取り上げ口に入れた。
「おっ、甘いじゃん」
「くそっ!絶対いつか身長抜いてやる!」
「どうかな?俺だってまだ成長期なんだぜ。」
けらけらと笑う彼を見ていると少し安心した。
ため息を吐き、俺は皿を下ろして自分も林檎を1つつまみ口に運ぶ。
甘酸っぱい林檎の味が口の中一杯に広がった。
ふと、切原さんが目を伏せて、俺の髪を乱暴に撫でる。
「悪かったな…日曜日、俺の所為で潰しちまった。」
「…そう思うなら、さっさと治しなよ。アンタが大人しいとなんか気持ち悪い。」
そう言うと、彼は何も言わず満面の笑顔でさらにぐしゃぐしゃと髪を撫でる。
何か文句を言おうと口を開いたけれど、その笑顔を見た途端に、全部忘れてしまった。
「明日、ちゃんと病院行きなよ。」
「ああ、早く治してお前と遊び行きたいからな。あと、ちゃんとキスもしたい。」
そう言って彼は、俺の額に軽くキスをして笑った。
それから数日後、俺は当然のように風邪を引いた。
「ごめん!本当に悪かった!」
「ちょっと…それやめて…アンタの声でかいんだから頭に響く…」
「あ…悪い」
電話の向こうから聞こえるのはいつものうるさいあの人の声。
それが申し訳なさそうに小さくなって、しゅんとしてるのが見なくてもわかる。
しょぼくれた声の後、彼は思い付いたように声を発した。
「風邪薬!」
「飲んだよ」
「じゃあ飯は」
「食べた」
「だよな…菜々子さんも倫子さんも居るし…」
しばらくの間、電話口からは唸るような声が続く。
あの人が、俺のために必死に考えている姿が目に浮かぶようで 俺は思わず笑ってしまった。
「な…何だよ?」
「別に、あのさ……」
「何?」
「林檎食べたい」
一瞬の沈黙のあと、いつものうるさいくらいに元気な声が電話越しに響いた。
「林檎なっ!」
「言っとくけど、とびきり甘いのじゃなきゃ嫌だからね。」
「任せろ!すんげー甘いの持ってってやるから!」
喧しい電話が切れてからあの人が来るまで、俺は少しの間だけ目を閉じた。
うるさいあの人が来るまで、あと少し。
熱い頬と早い鼓動は、いつまでもおさまってくれないけれど、それは熱の所為にして誤魔化そう。
――嬉しくて仕方ないなんて、言ってやらないんだから。――
〜fin〜
2014/01/28up