財前光18歳。
春からの大学生活を前に、俺は念願の一人暮らしを果たした。
大してない荷物を運び入れ、持ち込んだ家具を設置して引っ越し業者は引き上げていった。
あとは段ボールを開封して適当な場所に納めて終いや。
とりあえずそれは後でもええやろ。
その前に、俺にはやらんとあかん事がある。
引っ越しするにあたり、おかんに口を酸っぱくして言われとったこと。
それは引っ越し先の隣近所への挨拶回りやった。
近所付き合いは最初が肝心やねんで、そう言うたおかんの言葉を思い返しため息をつく。
挨拶回りとか正直めんどいけどそれをせんかったことで後でやいやい言われてもっとめんどいことになるんも嫌やし、と俺は重い腰をあげて隣の部屋の前に立った。
表札に書かれた“忍足”の文字を見て首をかしげる。
なんて読むんやこれ……まあええか、そのままで。
インターフォンを鳴らすと、扉を開けたんはバンダナ付けたなんやめっちゃ目付きの悪い若い男やった。
「あ?」
一音そう返されてめっちゃ訝しげに見られとる。
なんやこん人、ヤンキーか?
「……あーどうも、シノビアシさんです?」
「……謙也ぁ!客やで!」
バンダナの人は部屋の奥に向かって声を張り上げる。
どうもこの人は部屋の主ではないらしい。
「おー、おおきにユウジ。荷物かなんかか?」
そう言いながら近付いてくる部屋の主らしき人に知らんと答えながらバンダナの人は奥に引っ込んでいく。
代わりに現れた謙也と呼ばれたその人物は、これまたド派手な金パにきつめの目付きが印象的なやっぱこん人らヤンキーやろっちゅう風貌の男やった。
「ん?どちらさん?」
「あ、俺今日から隣に越してきた財前言います。これ引っ越しの」
「ああ!今日やったっけ。わざわざおおきに。俺は忍足謙也、よろしゅう。歳近そうやんな?いくつ?大学生?」
シノビアシ、もとい忍足さんははよドア閉めればええのに、手土産持ったままペラペラと話を続ける。
「はぁ……18っす。4月から大学に」
「へぇ、ほな一個下やなぁ」
そんな会話をしとると部屋の中から人が顔を出した。
「謙也〜千歳着いたって」
「おーほんまか」
さっきのバンダナの人以外にもまだ居ったみたいで、顔を覗かせたんは偉い整った顔立ちの男、けどこん人も髪色がミルクティーみたいな変わった色しとる。
つかまだ来るんか。
はよ退散しようと足を引いて方向転換の準備を調える。
「ほな俺はこれで」
「あ」
「ぶっ」
これ以上立ち話に付き合わされんうちにと確認せんと振り返ったら、何かでかいもんにぶつかった。
「おっと、大丈夫やったと?」
鼻を押さえて顔を上げると、俺より頭一個分位高い位置から見下ろされとる。
なんやこん人でっか!
「大丈夫、っす、ほな」
とりあえず離脱には成功したけどほんまめんどい。
まあ隣人なんそうそう関わることもないやろ。
このとき俺はまだこの隣人と深く関わることになるとは思いもせんかった。
この部屋に住み始めて一週間、一人暮らしなん気楽でええやろなと思っとったけど、炊事洗濯全部自分でやらなあかんしある程度覚悟はしとったけど想像以上にメンドイ。
洗ったばかりの洗濯物を抱えながら俺は溜め息を吐いた。
片手で籠を抱えてベランダに続く窓の鍵をあけて表に出る。
そして室内に流れ込む冷気を遮断するため何の気なしにいきおいよくピシャリと引き戸を閉めた。
瞬間カチャッと奇妙な音がした。
まるで何かが嵌まるような……。
恐る恐る振り返り引き戸に手を掛けて力を込める、けどびくともせん。
「嘘やろ……?」
鍵の開け方が甘かったんか、扉を閉めた衝撃で鍵が掛かってもうたらしい。
んなアホなことあるんかと何度引っ張ってもびくともしない。
信じられへん……どんだけミラクルやねんコントやないねんぞ。
時は3月上旬。
春が近いとはいえ今日は天気予報でも真冬に逆戻りとか何とか言うてて眉をしかめたんはついさっきのことや。
上着も着んと表に長時間居られるような気候とちゃう。
既に体温はじわじわ奪われ始めとる。
せやけど今俺の手にあるのは籠に入った洗い立ての湿った洗濯物のみ。
せめて携帯があれば恥を忍んで兄貴なりおかんなりに救助を頼めたのに、それも今はガラス窓の向こう側のローテーブルの上に鎮座しとるわけで。
「最悪や……」
冷たいコンクリに座り込み呟く声は虚しく寒空に吸い込まれて消えた。
ガラスなん割ったら弁償にいくら掛かるかわからんし、引っ越したばっかの学生にそんな余裕なんかない。
こうなればもう通行人に助けを求めるしか……そう思い立ち上がって見下ろす。
眼下に広がる閑静な住宅街を前に、俺は再び座り込んだ。
ここは5階や。
誰かに気づいてもらうには結構な声を張り上げる必要がある。
そんなんして気づいてもらって救助されたとして、次の日から俺はどんな顔して近隣住民と顔会わせたらええねん。
ないわ、ほんまない。
「……洗濯物……干さな……」
ひとまず本来の目的と言う現実逃避に走り絶望感をまぎらわそうとしてみた。
が、それも終わってまえば完全にすることがなくなる。
しかも冷たい洗濯物に指先の体温が完全に持ってかれた。ほんま最悪や。
既に閉め出されて一時間は経っとると思う、体感やけど。
人ってどんだけ体温下がったらあかんのやろ。
どないしよ。このまま夜になったらほんまに洒落にならん。
こんなとこで凍死とか、絶対嫌や。
覚悟を決めて助けを求めようとしたその時やった。
「お、お隣さんや!こんにちはーってめっちゃ震えとるやん!どないしたん!?」
俺の心情とは正反対の明るい声に視線を向けると、その声に負けない明るい金髪頭が視界に飛び込んできた。
薄い災害時の避難用の衝立を隔てた向こうから声を掛けてきたんは隣人の忍足さんや。
突然のヤンキーの登場に一瞬躊躇した、けど、これを逃したらこっから絶叫して人を呼ぶかガラスぶち破るか凍死かの三択やろ。
ならもう背に腹は代えられない。
事情を説明すると、彼はさっと表情を変えて大袈裟なくらい驚いた。
「ほなそんな薄着でずっとそこに居ったん!?」
頷くと、彼は慌てた様子で衝立の向こうから腕を伸ばして何かを差し出した。
「これ!とりあえず被って待っとき!」
自分の肩にかけとったカーディガンを俺に渡すと、
彼はあっという間に視界から消えた。
彼の体温が移ったカーディガンは今の俺には救い以外の何物でもない。
俺より少し大きなそれを被ると、良い香りと温かさが俺を包んだ。
それから間もなく玄関が開いて、お邪魔します!と言うでかい声と共にガラスの向こうに忍足さんが現れた。
彼はすぐさま窓に近付き、鍵を開けてもらって俺は漸く家の中に戻ることが出来た。
しゃがみこんで震える俺に忍足さんはすかさず自分の部屋から持ってきたらしい厚手のコートで俺を包む。
冷えきった俺の身体を包んだコートの上から更に忍足さんが腕を回して身体を擦ってくれる。
この人の身体めっちゃ温い。
「うわぁめっちゃ冷えてもて……寒かったやろ……うちおいで!温かいお茶いれたるから!」
「いやそんなんまでしてもらうなん……」
むしろそれは俺がするべきなんとちゃうやろか。
けど俺の身体は震えが止まらんくてとても茶を出す体力はない。
「遠慮せんでええから!はよ身体温めな……そんな震える手で熱いもん扱ったら危ないで」
そう言いながら冷えきった俺の手を温かい手が包む。
断ろうと思うけど正直身体は限界や。
警戒しようと決めた隣人やったけど、思いの外彼は優しい。
「……ほな、お言葉に甘えて……」
「よし、行こ!」
あれよあれよという間に俺は隣の部屋に上がり込み、電気ストーブの前で借りたコートに包まって丸まっとった。
「お待たせ!手ぇ大丈夫か?熱いから気ぃつけて」
持ってきたマグカップを俺に手渡すと、彼は心配そうに顔を覗き込んだ。
「おおきに……」
自分の部屋の鍵閉めるのすら難儀する有り様で代わりに閉めて貰うくらい震えとった手も、甲斐甲斐しく世話を焼いて貰ったお陰でなんとか震えは止まっとる。
手渡された紅茶を飲みほし腹の中から温まると、漸く俺は自分の置かれた状況に気が付く。
絶対関わらんとこと思っとった隣人、俺は今その部屋に上がり込みあろうことかその隣人のコートに包まりお茶をご馳走になっているわけで。
まさかこんな事になるとは……。
けど、第一印象の悪さはどこへやら。
「だいぶ顔色よおなってきたな。さっきは真っ青やったからほんまびっくりしたわ」
安心したように笑う彼はお人好し丸出しや。
「ほなお茶のおかわり持ってくるから、そっちのテーブルで待っとってや」
「あ、すんません……」
くるまってたコートをハンガーに掛けてダイニングテーブルに移動する。
すっかり帰るタイミング逃してもうた……。
席について改めて部屋を見渡すとぱっと目についたんは本棚や。
隙間なく埋ったその本は中には漫画もあったけど、その大半を占めるんは小難しい文字が並ぶ専門書、おそらく全部医学書や。
あまりに意外なその光景を見詰めとると、忍足さんがお茶のおかわりと菓子を持って戻ってきた。
「ん?どないしたん?」
「あ、すんません」
さすがにあんまじっと部屋みとったら気ぃ悪くしたかと思ったけど、彼は屈託のない笑みを浮かべて向かいに座った。
「ええよ、けど大しておもろいもんないやろ?俺の部屋」
「まあ、俺にはわからん分野やなとは思いますけど。忍足さんて学校……」
「ああ、医大生やねん、俺」
本棚見て何となくそうやろなって思っとったけど、やっぱ意外や。
と、そんな思いが顔にでとったらしい。
「意外?」
「まあ……」
「ふはっ、正直やな」
これはもう心の中でとはいえ見た目だけで彼をヤンキーと決めつけた自分を反省せなあかんな。
柔らかな雰囲気や気さくな態度やその優しさは彼の人柄の良さを悟らざるを得ない。
つか最初からこん人だいぶ気さくやったわ。
「隣に財前くん越してきてくれて嬉しいわ。半年前まで隣の部屋に住んどったん単身赴任のおっちゃんやったからこうやって茶あしばいたりせんかったし」
「はぁ……」
「でも財前くん最初会ったときめっちゃ警戒しとったから仲良ぉなれんかと思ったわ〜」
「ああ」
あの時は初っぱなからガン飛ばされるわヤンキーっぽい人ら出てくるわで心の底から関わったらあかんと思っとったからな。
「そら警戒もしますわ……」
「ん?」
「玄関あいていきなり睨んできはりましたよ、あのバンダナの人」
「バンダナ?ああ、ユウジか」
「あん人いきなり機嫌悪そうにガン飛ばしてきはるし忍足さんど金パやし絶対ヤバい人らや思いましたわ」
「あー、確かにこんな色しとると初対面怖そうや思われることあるわ。気に入ってんけどなーこれ……」
忍足さんは自分の髪を指先で摘まんで遊びながらそう呟く。
まあ初対面は確かにそう思ったけど、今は、窓から差し込む日差しを浴びてキラキラ光るその髪はこの人の笑顔に良く似合うと思う
「ええと、思いますよ」
「え?」
「髪、似合うてはります」
「そっ、かな?」
へらっと表情を緩ませた彼の姿は、どうみても成人間近の男の見た目に反して、やたら可愛らしく見えた。
「あっ、せやせやユウジな。あいつ中学時代からのダチやねんけどまあ目付きの悪さと愛想のなさは確かに普段から定評あるんやけど、あん時は来る予定やった相方が来れんくなっていつもより拗ねとってん。あいつ相方大好きやから」
あれ拗ねとったんか。
親の仇でも見るような目やったぞ。
「たまにああして集まって飯食ったりすんねん。タコパとか鍋パとか。皆学生やから、皆で食うと安いやん?」
「まあ、そうっすね」
「やっぱ学校通ってバイトしてとかやとあんま贅沢できんからな。節約せな」
一人暮らし初心者の俺に、忍足さんは何処のスーパーが安いだの何処の惣菜がうまいだの、くるくると表情を変えながら教えてくれる。
ここでもまた彼の意外な一面を知る。
帰りが遅い日もあり夜中に玄関でガチャガチャやっとる隣人はてっきり遊び歩いとるんかと思っとった。
しかし聞けば普段学校が終わったあとはバイトにいってなるべく生活費は親に頼ることないようにと心掛けとるらしい。
帰りが遅いのは春休みでここ最近は深夜帯のシフトの日が多いのだそうだ。
やから食事は出来る限り自炊で賄って節約しとるから安い店とか簡単レシピとか何でも聞いて、と彼は自信満々に胸を張る。
またや、可愛い。
童顔でもなければ華奢でもない男に対しておおよそ似つかわしくない単語が頭を過る。
自分の思考に戸惑いながらも、楽しげに話す彼の顔から目が離せない。
ふと気付けば西日が部屋を夕焼け色に染め始めとった。
いつの間にこんな時間経ったんやろ。
「すんません、そろそろ失礼しますわ」
「あ、だいぶ引き止めてしもたな……すまん」
「いえ、こっちこそ長いことすんません」
立ち上がり玄関に向かうと、忍足さんも見送りについてきた。
律儀な人やな。
「またおいでな!」
そう言って、彼は自分の部屋から顔を覗かせながら俺が自分の部屋に入るまで手を振っとった。
パタンと扉を閉めると、しんと静まり返った部屋が俺を迎えた。
なんか妙な一日やった。
あの人とこんな形で交流を持つとは思わんかった。
けど、彼と話をするのは思いの外楽しかった気がする。
初めて会ったあの日は直ぐにでも終わらせたいと思った彼の話を、今日はもっと聞いていたいと思った。
その夜、寝る前からなんとなく嫌な予感はしとった。
***
「あー……しんど……」
翌朝目が覚めた時には案の定、悪寒と関節痛と喉の痛みが俺を襲った。
まあ、当然やな……。
大人しく布団に潜って寝てようと思ったけど、咳と咽の痛みで中々寝付かれへん。
腹も減ったけどカップ麺だのレトルトカレーだの食える食欲はないし、買い物に行く気力もない。
なんや踏んだり蹴ったりやなぁ、とは思ったけど、昨日の事を思い返せば悪いことばかりでもなかった。
ほんまええ人やったな……忍足さん。
あんなことがなければまだ知らないままやったであろうあの人の優しさを知るきっかけが出来た。
そういう意味ではええ日やったとも言える。
まあとんでもない目にはあったけど。
そんな思考と眠気を妨げるようにまた激しい咳が襲ってきた。
せっかく寝られそうやったのに、自分の身体ながら腹立たしくて水でも飲もうかと起き上がった時ちょうどインターフォンが鳴る。
荷物の配達は覚えないし、セールスやろかと思いながら応対したったけど、訪問者は意外な人やった。
「……はい」
「あ、財前くん俺、隣の忍足やけど」
「……忍足さん?」
慌てて扉を開けると、そこには確かに忍足さんが居った。
「具合悪いんに起こしてすまん…咳してんの聞こえたから……」
「あ……煩かったっすか……?すんません」
隣やし壁ある言うても喧しかったやろか。
それなりに気はつけててんけどな。
「ちゃうねん!」
と思ったけど、彼は思い切り首を横に振った。
いちいちリアクションがでかい人やな。
「昨日身体冷やしたし風邪引いたんかなって思って……酷い咳やったししんどそうやなって、飯ちゃんと食うとる?」
「あ〜……作る気力なくて……」
「やと思って。良かったら何か作らして?食わな薬も飲めんやろ?」
「は?」
思わぬ申し出に今度はこっちが慌てて首を振る。
「そんなんしてもらうわけには……」
「あ、迷惑やったらすまん……」
「いやちゃいます。むしろこっちが迷惑掛けて……」
「それやったら全然!迷惑とか思わんし!」
さすがにそこまでしてもらうわけにはいかんやろと思ったはずなのに。
「ええんすか……?」
「おん!ちょお待っとってな!」
笑顔を返す忍足さんを見ながらなに言うとんねん俺っちゅう気持ちとこう言うてくれてんねやから甘えとこっちゅう気持ちがごちゃまぜになって結局頷いてもた。
「お粥出来たでー」
数分後、俺の前には出来立てのお粥がコトリと置かれた。
食事作る言うてもレトルトかなんかかと思ったら完全手作りの玉子粥やった。
しかもうちのキッチンを見てあまりの調味料の無さに絶句していったん自分の部屋に帰ってまで作って来てくれはるお人好しっぷり。
ダシとかないん?て聞かれたけど味噌汁とかはダシ入り味噌溶かしゃええとおもっとったからない言うたら唖然としとった。
「いただきます」
忍足さんが作った玉子粥をスプーンで掬って一口、口に含む。
いまいち味がわからんのが勿体ないけど、溶いて回し掛けた玉子が緩く固まって口に入れるとふわっと蕩けたんがわかった。
なんとなく鰹ダシっぽい味がしたんもわかったけど…やっぱり味はぼやけとる。
たぶん味覚がちゃんとしとったらもっと美味いんやろな。
「それ食べて薬飲んでな」
「……なんでここまでしてくれはるんすか?」
ついこの間知り合ったばっかの隣人にこんなこと、俺にはできん。
きょとんとした顔をして、忍足さんは事も無げに言う。
「やって、せっかく隣の部屋になったんやし、困ったときは助けたいやん」
あとな、と、彼は懐かしそうに目を細める。
「俺弟がおんねん、家両親が共働きでよお二人で留守番してて、小さい頃風邪とか引くと俺が看病したりしとったから、なんやほっとかれへんねん」
なんとなく納得した、この人の面倒見の良さや安心感はそのせいか。
「俺も……兄貴がいるんすわ。俺よりずっと年上で、やたら過保護で……めっちゃ、甘やかしてきて」
どこか兄貴を思い出させる、忍足さんの優しさに俺はほだされとるんかな。
「そうなんや!ほな今は、俺のこと財前くんのお兄さんやと思って甘えてや」
熱のせいか、少しぼんやりする頭は普段なら赤の他人であるこの人にそんなんされるなんて、と思うところやのにうまく働かん。
忍足さんの言葉に頷くと、彼は目を細めて笑った。
「あと、忍足さん呼ばれるんあんま慣れへんねん。やから下の名前で呼んでや?」
下の名前、そう言われて初めて会ったときの事を思い出す。
確かあの時彼の名前を聞いたはずや。
「謙也、さん?」
自分が言う前にそう答えた俺に、彼は一瞬驚いた後すぐ嬉しそうに破顔した。
「おん、覚えててくれたんや」
「まあ……あ、俺んこと“くん”とか付けんでええですわ。俺年下やし」
「そか?ほな財前、甘いもん平気?」
「? はあ、平気っすけど」
「ほな待っとってや〜」
そう言い残して、謙也さんがキッチンに消えてまもなく。
「あ」
キッチンから漂ってくる甘い香り。
詰まってたいして働かない鼻でもわかる、ええ匂い。
すぐに謙也さんがマグカップを持ってやってくる。
「はい。火傷せんようにゆっくり飲み?」
そう言って手渡してきたマグカップの中にはクリーム色の液体がなみなみと揺れている。
少し息を吹き掛けて冷まし、一口啜る。
「あ、甘い……めっちゃ美味い」
良かった。
そう言って謙也さんは微笑んだ。
「ハチミツミルク。それ飲み終わったら暖かくして寝るんやで」
「はい」
そして謙也さんは俺が食った粥の入ってた皿やら鍋やら洗って自分の部屋に帰っていった。
飲み終わったマグカップを流しに置いて布団に潜る。
ハチミツミルクとお粥のお陰か、寝付けんくらいに痛かった喉の痛みは和らいで満腹によりすぐに睡魔が襲ってくる。
喉に良いからと彼がローテーブルに置いていったハチミツを見て、謙也さんみたいな色やななんて思いながら、俺は微睡みにおちていった。
***
翌日、目が覚めたら熱はすっかりさがっとった。
まだ鼻とかぐずぐずやけど、まあ活動できんほどではない。
簡単に食事をとって一息つくと、謙也さんが置いていったハチミツが目に留まった。
昨日のハチミツミルク、やたら美味かったな。
自分でも作れるやろか……。
そう思って小鍋を取り出して作り始める。
多分、特別なもんはいれてないと思う。
牛乳とハチミツ、それだけや。
それだけの筈なのに。
「なんでや……」
出来たハチミツミルクを一口啜り、俺は思わず一人ごちる。
自分で作ったハチミツミルクも不味くはない、けど、圧倒的に謙也さんの作ったやつの方が美味かった。
分量とか違ったんか?とも思ったけどそれだけやない気がする。
あの人が作ったもんやから、あんだけ美味かったんやないか、そんな気がする。
また作ってくれへんやろか。
てか昨日の礼もまだやったやん。
今春休みや言うてたけど、バイトしてはるみたいやし今部屋にいてはるやろか。
確認しようにも、俺はまだあの人の連絡先すら知らん。
ほんまにまだお互いなんも知らんのに、あの人の優しさだけはたった2日の交流でこんなに知ってもた。
けど、もっと知りたい。
優しさだけやなくて色んなあの人の姿をもっと知りたい。
謙也さんの部屋の前に立ち、そんなことを思う。
ああ俺、この数日謙也さんのことばっか考えとる。
この気持ちの正体を俺はまだ知らないまま、忍足の表札の下にあるインターフォンに手を伸ばした。
〜fin〜
2015/04/6 up