年に一度の七夕の夜晴れた年には
離れ離れでいた織姫と彦星が一晩だけ会うことができるのだと
そんな伝説を、幼い頃に聞いた
―願い事―
「なあ、跡部。今夜暇か?」
部活が終わった後、忍足が俺にそんなことを聞いてきた。
珍しいことではないが、心成しか期待を込めた顔で聞かれると何か企てているようで気になった。
「なんだよ?」
「七夕祭りあるんやて。一緒に行かへん?」
ああ そういえば と、この日の日付を思い出す。
今日は7月7日 願いを綴った短冊を提げる古い習わしはいつの間にか忘れて過ごしていたけれど。
ロマンチストなこの男のことだからこういうイベントは好きなのだろう。
少し昔の俺ならば、短冊に願う程度の願いなどないと、七夕の夜など興味を持たなかっただろうが
こいつと二人で出かける機会ならば そんなイベントも悪くないと思うようになった。
出来るなら、その申し出を受けたいと思ったけれど…。
「悪いけど…」
「あ…何かあるん?」
「父さんが、今日は客が来るから家に居ろって、挨拶するだけだろうけど…。」
恐らく本当にそれだけ、その後は部屋に戻っていればいいのだろう。
しかし出かけることは許されない。
期待を込めていた瞳が一瞬揺れる けれどそれを悟らせまいと笑う忍足の様子に胸が痛んだ。
「さよか…わかった。」
「悪い…。」
「ええよ。気にせんで。」
せっかくの誘いを断ることになった事も、申し訳ないと思ったけれど
多分それ以上に、俺はこの男の誘いを素直に嬉しいと思い、それを受けられなかった自分が悔しかった。
その日の夜、父が言った通り数人の客が家を訪れた。
父に呼ばれて部屋に入ると、父は俺を傍に付け紹介する。
「息子の景吾です。」
「初めまして。」
跡部家の一人息子として、愛想良く父の顔を立てる。
いつも返ってくる言葉は同じ。
賢そうだとか、さすが貴方の息子さんだとか、そんな言葉をもう何回も聞いてきた。
一通り挨拶を済ませると、話は俺から仕事の話へと移っていく。
「景吾。部屋に戻っていなさい。」
「はい。失礼いたします。」
自分の部屋に戻り扉を閉めると、無意識に深い溜息を吐いていた。
ベッドに倒れこむように寝転がり、無造作に放り投げた携帯電話のストラップを指で掬うと 金具の小さな音が静まりかえった部屋の中でチリチリと鳴る。
「あいつ…どうしただろう…」
行かなかったのか、テニス部の誰か誘ったか それとも…
目を閉じると、あいつの隣に知らない女がいる場面が脳裏に浮かんだ。
「くそっ…!」
俺は、いつからこんなに女々しくなったのだろう。
そんな姿を想像しただけで、じわりと視界が歪む。
それを振り払うように、柔らかい布団に向かって投げた携帯電話がその反動で軽く弾むと、まるでそれが合図にでもなったように音が鳴った。
突然の知らせに、慌てて飛び起きる。それは短くメロディを奏でて止まった。
画面にでたアイコンが、一通のメールの着信を知らせていた。
差出人を見れば、今まさに頭に浮かべていた相手の名前。
まるで、俺の心を読んだかのように、それは俺の手元に届いていた。
“外、見てみ?”
たった一言の文章に導かれて、俺は部屋の窓を開けた。
そこには、東京の夜にしては珍しく澄んだ、雲一つない星空が広がっていた。
「跡部」
ぼうっと空を見上げていると、何処からか俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
幻かと疑う程に 待ち望んだそいつは、突然に俺の前に現れた。
「忍…足…っ」
庭に植えてある木は、俺の部屋の窓のすぐ側まで枝が伸びている。
その木の葉にまみれて、へらへらと笑いながら 忍足は確かにそこに居た。
「お前…何でここに…」
「挨拶だけ言うてたからもう終わったんちゃうかな思て。 七夕祭り、今から行かへん?」
微笑みながら、忍足はその手を俺に差し出した。
「お迎えにあがりました。お姫様。」
「お前って奴は、ホントに…。」
何処まで俺を惑わせるのだろう
こんなことで胸が弾むほどに、俺はコイツに溺れているのか…そう思うと癪だけれど、決して嫌な感情ではない。
こんなにも温かい気持ちになれるなら、溺れるのも悪くない。
俺はその手を取り、部屋の窓から抜け出した。
忍足に連れられて道を歩いていると、家族連れや子供達とすれ違う。
明らかにそれらの人々は鮮やかな色合いの水風船や綿菓子を持ち、俺達の進む方向から次々に歩いてくる。
ふと思い、平然と歩き続ける忍足に問いかけた。
「祭りって…もう終わってんじゃないのか?」
「ああ、屋台とかはもう終わってるかもなぁ。」
「…お前、じゃあ何しに行くんだよ。」
「大丈夫や、七夕の夜はまだ終わってへん。」
そう言って、にこりと微笑んだ忍足にもう一言くらい何か言ってやろうとも思ったが やめておく事にした。
祭りが終わっても、七夕伝説などなくても、この男が隣に居るだけで良いと思う。
自分でも重症だと思うけれど、それくらい俺はコイツの事が――――
「ほら跡部、見てみ?」
「…これ」
公園の真ん中に立てられた大きな竹が、色取り取りの飾りや短冊を星空に棚引かせ、風に揺れる。
その佇まいはとても優雅に、美しく見えた。
「短冊、まだ残ってるで?俺等も書こうや。」
「ああ。」
丁度二枚残っていた短冊の一枚を、忍足は俺に手渡す。
あまりの偶然に俺は、それがまるで俺達を待っていたかのように思った自分の考えをこっそり恥じた。
「どうかした?」
「別に、なんでもねぇよ…。」
顔を背けてそう言うと、忍足は小さく笑った。
「なんだよ。」
「あんな、俺今この二枚、俺らの為に残ってたみたいて思ってん」
思わず忍足の背中をばしんと叩くと、情けない声をあげた忍足はその場所を擦りながら抗議をする。
「くだらないこと言ってんなよっ。」
「酷いわ〜暴力反対!」
ごちゃごちゃ抜かす忍足は無視して、俺は短冊に向かいペンを握った。
やがて相手にされないことに諦めたのか、忍足もペンを取り隣で何か書き始めた。
互いにその紙に向かい、暫くの沈黙の後 書き終えたらしく机にペンを置いた忍足は
目の前の竹には目もくれずじっとこっちを見ていた。
俺の書く願い事を見たいのか、その目を逸らすつもりはないらしい。
「…吊るさねぇのかよ。」
「ええねん、星に願うよりこっちのが強力そうやわ。」
差し出された手の先には、小さな一枚の短冊。
それに綴られた丁寧な文字は願い事というにはあまりにも足りない言葉だった。
―跡部の一番になりたい―
「どうや?叶えてくれる?」
「…願い事じゃねぇよ。」
「何言うとる!俺には重大なことやぞ!」
本当に 馬鹿みたいだ こんな願いはもう とっくに――
紙にペンを滑らせて、その紙を忍足に差し出すと、忍足は目を輝かせてそれを受け取った。
しかしそれを見て、忍足は顔を曇らせしげしげとその文字を眺める。
俺は奴に気付かれないようにその様子をこっそりと笑った。
「…なぁ なんて書いてあるん?英語、やないよな?」
「ドイツ語」
「ひっどいわ!ドイツ語なんて俺知らん!」
「勉強するんだな。」
俺の願い事 それは
『ずっと、忍足の一番でありたい』
―――二人の愛が、永遠でありますように
〜 fin 〜
2009.2.10 加筆修正再up