それはまだ知らなかった気持ち 恋を知った日のお話








―それは 突然に―









夏の天気は変わりやすい、青かった空は瞬く間に曇天へ、乾いた空気は雨の匂いへと変わった。
その変化を察知して間一髪、大した被害もなく休憩用の小さなスペースに避難したのは良かったものの…




「これじゃあ暫く帰れないな…。」

屋根の下に駆け込むと同時に、水は音を立てて地面を叩き始めた。
白い色をしていたコンクリートの地面があっと言う間に黒く変わっていく。
恐らく一時的なものであろうと思っても、せっかくの休日の練習時間を雨に奪われるのはやはり悔しい。
軽く走りウォーミングアップまでしたというのに、ボールに触る前に予定していた練習を中断せざるを得なくなってしまった。
仕方無しに慌てて掴んで持ってきた鞄にラケットをしまう。
早く止んでくれと空を見上げてみても、空から落ちてくる大粒の雨は激しさを増すだけ。
いつ止むのか見当もつかない。
どうしようもなくなって、俺は一人溜息をついた。








そんな時、雨音の中から一際激しい水音が近付いてきた。
その人物が目指す先は確実に自分のいるこの場所であることは一目瞭然だった。
広いこのストリートテニス場で、近くに雨宿りできる場所はここしかないのだから。
特に気にもせず、黙ってやり過ごせば良いだろうと思っていた。
その人の声を聞くまでは





「あーもう最悪っ!!」


誰に言ったわけでもない、大きな独り言は別に大して気にならなかった。
ただその声に、ありすぎるぐらいの聞き覚えがあった。
思わず振り返ると、向こうも先客だった俺に視線を向けていた。



「「あっ…」」



同時に声をあげて、同時に固まった。
俺よりずっと背が低いくせに、俺より一つ年上の、苦手なパートナーの姿がそこにあった。

「日吉…」



目の前の人は『よりによって…』とでも言いたげな顔で俺を見る。
その後はどうにも気まずい沈黙が、俺達の間に流れていた。
5分 10分、そんな沈黙に先に耐えられなくなったのは向日さんの方だった。

「あ〜…お前も自主練?」
「ええ…まあ…」

そうか と短く返された後、また少し、沈黙が流れた。




「雨、止まねぇな…」
「そうですね…。」

どうにも話が続かなくて、俺は少し離れた場所に座る向日さんに視線を移した。
向日さんの身体は、雨に打たれる前にここに来た俺と違ってだいぶ濡れていた。
練習に来たのだからタオルは持っていたようだけれど、そのタオルも鞄ごと雨に打たれて湿っているのが離れた場所からでもわかった。
いつもさらさらと揺れる、切り揃えられた赤い髪の先から、小さな雫が滴るのが見える。
夏とはいえ、雨に打たれた小さな身体は、とても寒そうに見えた。
思わず自分の鞄から乾いたタオルを取り出し、座っていた椅子から立ち上がった。





「向日さん、ちょっとじっとしててください。」

きょとんとした顔で見つめられる、一瞬 なんだか変な感じがした。

タオルを頭から被せて拭き始めると、向日さんは慌てて制止の言葉をかけてきた。

「ちょっとっ これお前のタオルだろ!?濡れちゃうからいいって、俺自分のあるからっ」
「大丈夫です、使ってないですから。」
「そーじゃねぇって 俺結構雨に打たれたし…」


「だから、風邪引かれでもしたら困ります。」



自分でも、一瞬何を言ったかわからなかった。
言った言葉を理解し 顔が少し、熱くなるのを感じて思わず視線を逸らした。

「俺、アンタのパートナーですから、明日部活…休まれたら困ります。」

雨に濡れた髪から、あらかた水分を拭き取って、タオルを外すと、黙って見上げていた向日さんと目が合った。
また、変な感じがした。



「…ありがと、日吉。」

ふいに、見たことのない笑顔で微笑まれた。
ダブルスを組んでから、怒った顔や嫌そうな顔は見たことがあったけれど、こんな笑顔はみたことがない。
ドクンと、心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
感じたことのない、奇妙な感覚。
ああ マズイかも知れない そう思った時には多分、もう遅かった。





「お前、――――思ってた。」

小さい声で何か言われたけど、その声量と雨でよく聞こえなかった。
え?と聞き返すと、はっきりとした声で目を見据えられて、もう一度言われた。

「お前、俺のこと嫌いなんだと思ってた。」
「は?なに――」
「俺も、お前のこと嫌いだと思ってた。」
「……」
「でも俺最近、お前のこと嫌いじゃない。」



自分より年下に見える目の前の先輩は、幼い容姿にそぐわない大人っぽい表情で笑う。
とたんに周りの音が聞こえなくなって、自分の心臓の音だけが 変に大きく耳に響いた。




「雨、止んだ。」
「え…」

言われて空を見上げると、雲の隙間から青空が覗いていて、あれだけ煩かった雨はピタリと止んでいた。
そんな光景に目を奪われている間に、向日さんは俺の腕の隙間からするりと抜け出して立ち上がると、そのまま屋根の下から出て行った。
夏の日差しが戻ってきて、雲の隙間から差し込だ光が、空の下に躍り出た向日さんを照らす。

「これならすぐ乾くだろうな。」

俺に言っているのか、それともただの独り言か、向日さんはそう呟いて俺の方に向き直った。

「なあ、練習 一緒にやってかねぇ?」
「え ああ。」

そう言っても、地面はまださっきまでの激しい雨で濡れていた。
こんな状態ではまだボールは使えない。
そのことを言おうとして、口を開いたけれど、声になる前に向日さんの方が先に喋った。



「じゃあ乾くまで、ここにいような。」



そう言って、今度は楽しそうに笑う。


今日一日で何度、この人の笑顔を見ただろうか それくらい今日は、この人と長い時間一緒にいたように思う。
単純なことに、苦手だったこの先輩を、今の俺はそんなに不快に思うことはなくなっていた。
他愛ない会話をしながら地面が乾くのを待ち、乾いたコートでの練習が終わった後も 俺達は最初の、昨日までの俺達ではなくなっていた。
この人はこんなにも、可愛い人だっただろうか。
情に厚いところも笑うと可愛いところも意外と考えているところも
今まで見ようとしなかったこの人の一面を知った。


まるで今日の天気のように、俺の この人へ思いは変わっていた。




別れ道で手を振って、遠ざかっていく彼の背中を見送った後、顔が熱いのも動機が早いのも、全部夏の所為にして帰路についた。


けれどそれが、夏の所為なんかじゃないことは多分この時、俺はもう気付いていた様に思う。






季節が変わって 夏が終わっても


この人の笑顔の前では 俺の心臓の鼓動はいつだって速くて熱い――――




〜fin〜