謙也さんとの生活はそれはそれは幸せで、家に帰る度に、部屋に明かりが灯っているのを見るたびに嬉しかった。
しかし、それと同時に不安にだった。
俺の希望を叶えることで、ある日目覚めた時彼が居なくなっていたらどうしよう。
今日帰ったら部屋に明かりが点いていなかったらどうしよう。
彼が居なくなっていたらどうしよう。
そんなことばかり考えて。
いつしか俺は、謙也さんに願いを叶えてもらう事が怖くなっていた。
俺の胸を幸せが満たしていくのが怖い。
何がきっかけでその時が訪れてしまうか、俺にはわからないから。
謙也さんが不思議な力を使うたびに、別れが近づいてくる気がして。
いつの間にか、飯を作ってもらうこともなくなっていた。
適当に理由をつけて食べて帰ったり、弁当を買って帰ったり。
謙也さんの作る温かい食事が好きなのに、謙也さんの笑顔を見ながら食べる食事が好きなのに。
俺は何をしとるんやろ。
謙也さんとの毎日は、もっと楽しくて輝いていて、こんなもんやなかった筈なのに。
「光…お帰り…」
「…ただいま」
いつものように迎えてくれる謙也さん。
それは出会ったあの日から変わっていないのに、彼の顔から眩しいくらいの笑顔が消えたのは、いつからやったか。
曇った表情、それでも、彼は精一杯笑って俺を迎えてくれる。
でも、俺が好きやった笑顔は、こんな悲しそうな笑顔やない。
こうなったのは俺のせいや、それはわかっているのに。
俺は謙也さんを、幸せにしたりたいのに。
「光っ」
目もあわせないまま横を通り過ぎようとした時、不意に腕を掴まれた。
「怪我……しとる」
「ああ、さっきなんかの金具に引っ掻けて」
それは小さな傷だった。
少し血が滲んでいるけれど、たいしたことない。
「今治したるっ!」
謙也さんの口からその言葉が零れたのを聞いて、俺は思わずその手を振り払った。
「あ……、」
謙也さんの顔が、今にも泣きそうに歪む。
彼は流す涙は持っていないけれど、俺にはその顔が、泣いているように見えた。
「すみません…、ええです。すぐ治りますさかい、力は使わんで…」
そういった俺の腕を、謙也さんはもう一度そっと掴んだ。
「ほな…、せめて、手当てだけでもさして…」
黙ってはいたけれど、手を振り払わない俺を見て承諾と捉えたのか、謙也さんは救急箱を持ってきて甲斐甲斐しく手当てを始めた。
静まり返った部屋に、小さな物音だけが響いていたのも束の間。
謙也さんは道具を箱に戻して蓋を閉めると、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、俺じゃ光を幸せになんかできんのやな…」
形の綺麗な唇から漏れた、哀しげなその声に、いろんな想いが溢れだす。
違う。俺は幸せやった。謙也さんが来てからの毎日は、確かに幸せやった。
せやのに、俺は自分でその幸せを手放そうとしとる。
そして、謙也さんを傷付けとる。
「謙也さん…っ」
「なぁ、光。光が望むなら、俺は消えるで。」
「っ!?何言うてはるんすか!俺は…そんな風に、居なくなってほしいなんて思ったことは一度もない!!」
「ほな俺は、どないしたらええの!?俺、光になんもしてやれてへんやんか…っ!」
魔法なんていらない。
他の願いなんか叶わなくてええ。
俺はただ謙也さんと過ごす温かい日々があれば、それでええんや。
謙也さんが居なくなったら、俺は幸せになんかなれないのだから。
それで良かったのに―――俺はその日々を今日まで自分で遠ざけてきた。
その幸せが心を満たしていくのが、彼との別れに近づく気がして。
だけど、そのために俺は謙也さんを悲しませたんやないか。
謙也さんを傷付けたんやないか。
「魔法なんかいらない。謙也さんが居ればええ…謙也さんと、ずっと一緒に居りたい。」
“ずっと傍に居て欲しい”それを拒絶されるのが怖くて、今日まで口にできずにいた。
けど、俺はこんな日々を過ごしたかったわけじゃない。
謙也さんと一緒に笑って向かい合える日々が、俺が何より欲しかった幸せで。
それを、自分で遠ざけた。
謙也さんとの楽しかった日々を、謙也さんの笑顔を自分で遠ざけた。
まだ取り戻せるだろうか。
「謙也さんが笑って傍に居ってくれはったらそれが俺の幸せなんや。俺は、謙也さんが好きなんや…!」
「……嘘…嘘やろ…?ほんまに…?やって俺、人形やで…?」
「構へん。俺は、どんな謙也さんでも好きや。あんたやから好きなんや。」
この手を離したくない、ずっと一緒にいたい。
もう一度、あの楽しかった毎日に帰りたい。
そして出来るなら、俺が謙也さんを幸せにしたい。
そう思っていたら、謙也さんが握ったままだった腕を掴む手に力を入れた。
その手が、僅かに震えとる。
「謙也さん?」
「嬉しい…っ光…っ、俺も、光が好き、ずっと、ずっと好きやった。」
目から落ちた透明な雫とともに、謙也さんの口から俺が何よりも欲しかった言葉が零れた瞬間、目の前が真っ白になった。
「な…っに!?」
「光!!」
白い光は謙也さんの身体を包み込んで、俺はこの光が謙也さんをどこかへ連れていってまうと思った。
「嫌や!謙也さんっ!!」
無我夢中で腕を伸ばして、謙也さんを抱き締める。
連れてなんていかせない。
やっと想いが通じ合ったんや。
腕の中の謙也さんが消えてしまわないように、思い切り抱き締める。
謙也さんも、応えるように俺の背中に腕を回した。
互いに強く抱き締め合っているうちに、だんだん光は消えていく。
けど、腕の中の温もりは消えていない。
俺の耳に届く鼓動は、2つ。
「え…?」
くっついた胸から2人分の鼓動が溶け合うように一つになっている。
けれど、それは本来なら有り得ない事で、それが聞こえるという事は。
「謙也、さん…?」
「びっくりした…元に戻されるかと」
「謙也さん…、あんた……」
「おん?」
「これ!」
俺は謙也さんの手をとって、その胸に押し付けた。
謙也さんの胸からは今も一定の速さで響く音が聞こえとる。
その意味を、彼も漸く理解したらしい。
「え…俺、人間になっとる…?」
「なんで…?」
「そうか、ほんまに叶ったんや。」
謙也さんの言葉の意味がわからなくて首を傾げれば、謙也さんは恥ずかしそうに口を開いた。
「俺の、もう一つの夢…人間になりたい。やってん。」
「なんで…人間に?」
「人間になって、光と同じになりたかった。そんで光に、…告白したいて思っとった。人形のままじゃ、絶対に受け入れて貰えないと思ったから…けど、光は人形の俺でも好きになってくれたんやな……」
嬉しい、そう言ってはにかんだ謙也さんの顔は、俺の一番好きな眩しい笑顔やった。
「せやけど…、夢が叶ったら居なくなってまうんやないん……?」
「え?俺そないなこと言うたっけ…?」
言うてへん。確かに謙也さんは一言も言うてへんかった。
俺が一人で恐れてただけや。
彼がある日突然居なくなってしまう気がして。
「俺は最初から、光のためだけにここに来たんや。他の誰かのところになんか行くつもりないで。」
「謙也さん……聞いてええですか?」
「おん?なんや?」
「謙也さんはどうして、俺のところにきてくれたんですか?」
謙也さんは少しきょとんとした後、懐かしいことを思い出すように柔らかく微笑んだ。
「俺ずっと昔になぁ、光と一緒に居ったんや。」
それは、とても遠い昔のこと、彼はある人形師の手によって作られた小さな人形だったという。
そして様々な人の手に渡り、幼い俺の元にやってきた。
それを俺も覚えている、幼い頃とてもとても大切にしていた、彼がその人形だったなんて。
ある日突然なくなってしまった、あの人形。
あちこちに持って歩いていたから、失くしてしまったのだと思い散々泣いた。
「光に大切にしてもらって、俺に心が生まれたんや。」
「でも俺は……っ、あんたを失くしてしもた……」
「ちゃうよ、あれはな」
長い時間の中で彼は心を持って、一つの夢を持った。俺を幸せにしたいって夢を。
けど、あの時の彼にはそんな力はなかった。それで神様に祈ったのだという。
俺を、幸せにする力が欲しいって。
「なあ、覚えてる?光が俺を連れて遊びに行った神社。そこにな、縁結びの神様が居ったんや。」
「縁結びの……?」
「人形の俺のこんな願い事聞いてくれるなんて、けったいな神様やろ?でもそのおかげで、こうして光と居れるんやけど。」
そうして彼は、長い長い時間をかけてあの不思議な力と、人の姿を手に入れた。
それでも本当に人にはなれなかったけれど。
そうして、彼はその姿でもう一度、俺の前に現れた。
「それで、その時俺はもう一つ夢を持っとった。それが、光と同じ人間になって、光と恋をしたいやった。」
でも神様は彼に言うた。
“自分には姿を与えることはできても、本物の人間にすることは出来ない”と。
そしてこうも言った。
“けれどもし、人形と人間が恋をして、その想いが通じ合うなんてそんな奇跡が起きたなら、人形が人間になることだってあるかもしれないね”と。
「ほな謙也さんの言うてた一個だけ夢が叶うって、人間になりたいってこと?」
「いや、ちゃうよ。俺の夢は、光が幸せになることやもん。」
「え、ほな、俺が幸せになったら叶う夢って……」
俺の幸せってことなんや。
なんてアホな人、そしてなんて優しい人なんやろ。
ほんまに謙也さんは自分の幸せより、俺の幸せを願ってたなんて。
「せやから俺が人間になれたのは、ほんまの奇跡。神様だって出来なかったんやで。」
そう言って笑う謙也さんを、俺は胸に抱き寄せた。そしてそのまま、強く抱きしめる。
「ひ、光っ!?」
俺は謙也さんと離れたくなくて、謙也さんが他の誰かの元へ行ってしまうのが怖くて、そのために謙也さんをたくさん悲しませた。
だから俺はこれから、その悲しみの分、いやそれ以上にもっとたくさん、謙也さんを幸せにしたい。
「謙也さん、たくさん悲しい思いさせて、ごめんなさい」
「光……」
「謙也さんはもう、自分の幸せを探してええんやで」
そう言うたら、謙也さんは涙を零して、腕の中から俺を見上げた。
「ええんかな…俺、こんなこと願ってええんかな……っ」
「ええんですよ。謙也さんは、自分の幸せを願ってええんです。」
「……ほな、言うてもええかな?」
「言うてください。」
抱きしめていた腕を緩めて、謙也さんと向かい合う。
涙に濡れた青い瞳が、俺の姿を映しとる。
謙也さんはすっと息を吸うと、その言葉を口にした。
「光、俺は、光が好きです。俺と恋をしてくれますか?」
「俺も、謙也さんが好きです。喜んで。」
謙也さんは、今までで一番眩しい笑顔で笑ってくれた。
その笑顔を俺が守っていきたい、これからもずっと。
そして、俺が謙也さんを幸せにしたい。
「幸せにします。」
「俺、充分幸せやで。」
「こんなん足らんっすわ。もっともっと幸せにします。」
謙也さんの手を掴んでぎゅっと握る。
温かい手のひらは柔らかくて、人形だった時とは違う。
それは紛れもなく、人の肌の感触。
「光って、こんなに手ぇ冷たかったんやな。」
「謙也さんが温かすぎるんすわ。」
温かくて優しい、俺の大切な人。
謙也さんが俺にくれたたくさんの幸せを、これから俺はこの人に与えてあげるんや。
そう胸に誓って、その柔らかい唇に自分の唇をそっと重ねた。
To be continued…
2012/3/4