始まりはまだ恋仲になる前、後輩として可愛くて仕方なかった光と仲良くなって
互いの家に行くまでになった頃、家から見えるその場所を二人で見付けたあのときやった。
家の離れから見える狭い通りにある柳の木。
人があまり通らないから、待ち合わせするのにちょうどよかった。


時が流れて多くの時間を光と過ごすうちに自分の中にある恋心を自覚した時
あの場所で光に想いを打ち明けられて、俺も気持ちを打ち明けて。
恋仲になってからも、ここを待ち合わせ場所にして、何度も逢瀬を重ねた。
それは俺らがそれぞれの道に別れた後も続いとった。
光は軍人に、俺は医者になるために。
初めて身体を重ねた日、光を受け入れる決意を口にしたんもあの場所やった。
ええんですか、って、光がかすれた声で俺の言葉を受け入れてくれた時も、柳の葉は穏やかに揺れていた。


光が帰省してくる度に、また見送る日がくる。
光の背中が見えなくなるまでその後ろ姿を見送った後はどうしようもなく寂しさが込み上げてくるけど
泣きたいくらいに切なくなった時も、その葉はこぼれかけた涙を拭うように優しく俺の頬を撫でた。
くすぐったくて思わず声を漏らして笑ってまう。
偶然やってわかっとるけど、慰めてくれとるような気がした。
優しくて温かい、ここは俺らにとって、大切な場所やった。











数ヶ月ぶりの帰省から光が軍に戻って暫く経って、久々の休日。
ほんまはあんま休みたくないんやけど、おとんになかば無理やり休みをとらされた。
光のいない休日はどうにも慣れんくて、持て余した時間の使い道を思案しながら町を歩く。

(あ、いつもの甘味屋や……)

町を歩いとっても、そこかしこに光との思い出がある。
時間に余裕が出来ると、どうしても光と過ごした時間を思い出して寂しさが込み上げて仕方ない。

(あかんわ……)

地元は思い出がありすぎて、隣町まで足を伸ばす。
町を歩いとったら、男の怒鳴るような声が耳に届いた。

「無理や!」

「な、なんや……?」

見ればそこはその町の病院の前で、男が二人の女性に怒鳴り付けとった。
その病院の医者らしい、白衣を着た男はいきりたってその二人を追い返そうとしとる。
縋るように助けを乞う若い女性に、もう一人の女性が諦めたように首を振っとるんが見えた。
“母を診て欲しい”若い女性は医者の男に何度もそう言うとった。

「うちじゃ手におえへんし、帰ってくれ」

病院に用があるっちゅうことは患者としか思えへん。
それを追い返すなんて、医者として見過ごせん。

「ちょおええですか。何で診てあげへんのですか!自分医者やろ!」

「そんなもん、症状聞いたらわかるわ。流行り病や、もう手の施しようもない。治療なんしても無駄やし、関われば自分も貰うだけや」

男は患者とおぼしき女性に視線を向ける。
確かに、女性を見ると明らかに症状が進行しとるんがわかった。
けど、あんな風に追い返すなん信じられへん。

「せやかて!見捨てるわけにはいかんやろ!医者が救わんで誰が患者を救うんや!」

「自分、隣町の忍足んとこのせがれやな。自分も医者なら肺病の知識くらいあるやろ。この患者はどうせもう長くはない」

「なら、俺が診る」

そう言って見据えると、男は忌々しげに俺を睨んだ。

「お前も死ぬかもしれへんで」

「それでも、患者を救うんが医者の役目や」

勝手にしろ、そう吐き捨てると男は院内へと入っていった。


その日から俺は定期的に隣町まで往診に出掛けるようになった。
患者さんの状態から、うちに来てもらうんは無理やったから。

「こんにちは!往診に来ましたー」

「ありがとうございます。どうぞ」

その家の娘さんに家の中にいれてもらって、部屋に案内される。
部屋の中では今日も患者さんが穏やかに微笑んで待っとった。
女性の名前は花さんといって、年の頃は俺のおかんと同じくらい。
俺と近い年頃の娘さんもおって、ますます自分のおかんと重ねてまう。

「遠いところからいつも来てもらって…ごめんなさいね…」

申し訳なさそうに眉を下げて、そう言う花さんに首を振って答える。

「そないなこと!気にせんといてください」

「おおきに…謙也くん」







「娘も婚約が決まってほんまに安心したわ。旦那ももう居らんくて、私もいつまで生きられるかわからなくてほんまに心配で」

旦那さんを亡くして母子二人で生きてきたという花さんは、娘さんの婚約が決まる前に肺病を患っとることがわかった。
自分の病気が娘さんの婚約に悪い影響を及ぼすんやないかって頻りに心配しとったけど、それは杞憂やった。
娘さんの婚約者は母親である花さんの病を知っても快く婚約を受け入れて、結婚後は彼女の闘病生活も支えてくれると約束してくれたらしい。

「私ももう長くはないと思うけれど、せめてその前にあの娘の花嫁姿を一目見られたら…」

「見れます!病は気からって言うんですよ。自分を信じて、気をしっかり持つことが大事なんです」

遠方に住む婚約者と婚儀の準備を進めとる今、花さんには少しでも元気になって式に参列できるようにしといてもらわなあかん。
診察を済ませて薬の説明をしたら、帰る準備をしながら雑談するんが俺らの日課。
花さんは色恋沙汰がお好みらしく、亡くなった旦那さんとの恋愛話が大半や。
聞けば旦那さんは軍人さんで、花さんとは恋愛結婚やったらしい。
それはそれは熱烈な求婚をされてしまったのだと、花さんは懐かしそうに、嬉しそうに、そして寂しそうに語った。

「謙也くんはええ人は居るの?」

「うえっ!?」

不意に自分に振られて、かあっと頬が熱くなる。
それを見て花さんは悪戯っぽく笑った。

「ふふっ、そう」

ああ、なんも言ってないのにバレバレみたいや。
光にも考えてることすぐにバレてもうて、よお笑われたんを思い出す。

「良ければお話聞かせて?」

めっちゃ生き生きしとる。
ほんまにこういう話好きなんやな…。
自分の恋路を話するんはちょっと恥ずかしいけど、
好きな話で気持ちを明るくするんも病にはきっとええはずや。

「えっ、と…学生の頃からの後輩で、十二の時に出会ってそれから」

「お名前はなんて言うの?」

「あ、光っていいます」

「まあ、そう。光さんというのね」

それから馴れ初めやらなんやらを楽しそうに聞き出す花さんに押されてついつい色々話してもうた。

「それで、高等学校までは同じ地元の学校に通って」

「あら?でも隣町におなごが通える学舎があったかしら……?」

そう言われて、思わず口を押さえる。
俺は失念しとった。
この辺の女子は進学するとしたら女学校。
俺らが通った学校はおなごは通えんかったんや。

「あ…………」

もっと他に誤魔化しようもあったかもしれへんのに、咄嗟に思い付かんかった。
狼狽える俺を前にパチパチと目を瞬かせて、彼女はすっと目を閉じた。

「…………そう」

何かを悟ったようにそう呟くと、花さんは再び目を開けて優しく微笑んだ。

「どんな子なのかしら?」

「あの、えっと…………」

「謙也くんが好きになった子やもの。きっとええ子なんでしょうね」

さっきまでと変わらない態度で続きを促されて、俺もさっきまでと同じように話を続ける。

「…………その、年下やのに生意気で口が悪くて、でも優しくて……」

話を続けると微笑んだまま耳を傾けてくれる。

「今は、なかなか会えへんけど帰ってきたら必ず会いに来てくれて」

「光さんは遠くに居るの?」

「はい、……今は軍人として訓練を積んで、お国の為に立派に頑張っとるんです」

「そう…………」

「やから俺もここであいつを待ちながら、医者として頑張りたいんです」

そう言ったら、花さんはにこりと笑った。




それから、俺は往診の度に光の話をしとった。
相手がおなごやないこと、花さんはわかっとった筈やのに何も言わんかった。
そうして暫くの間往診を繰り返しとる間に、娘さんの婚儀の日取りや準備が整ったとのことで
遠方に嫁ぐ娘さんと花さんはこの土地を離れることになった。
往診に訪れる最後の日も、いつものように花さんは微笑んでいた。

「おおきにね、謙也くん。私、謙也くんに出会えなかったらあの娘の婚儀まで…ううん、今日までも生きられへんかったと思うの」

「花さん…………」

「最後に一目あの娘の花嫁姿が見られたら私はそれでええの。もう何も思い残す事はないわ」

眩しい光をみるかのように目を細めて、花さんは言った。
今彼女の目にはきっと、遠くない未来の光景が映っとるんやろう。
大切な娘さんの花嫁姿が。

「おおきに、謙也くん」

その日を最後に、俺の隣町への往診は終わった。





それから一月程経って、一通の手紙が届いた。
それは花さんの訃報やった。
患者さんの死は、医者をしとれば避けられんことやけど。

「やっぱしんどいなぁ…っ」

誰にでもなく、そう呟いた。
ついこの間まで言葉を交わしていた人がもうこの世に居らんという現実は、そうそう慣れるもんやない。
けど手紙を読んで、彼女の一番の望みが叶っていたことを知れた。
手紙には、花さんが娘さんの婚儀の数日後に息を引き取ったこと。
娘さんの花嫁姿を見られて幸せやったと、俺にありがとうと伝えて欲しいと言ってたことが書かれとった。

「よかった……花さん、ちゃんと見られたんや……」




光からの手紙が届いたんはその翌日やった。
三日後に帰ること、大事な話があることを綴った手紙。
本来こんな急に帰れるなんて珍しい。
嬉しい知らせのはずなんに、酷く胸騒ぎがした。
なんやろ…………。
正体のわからない不安を振り払うように、今日も仕事に打ち込みながら光に会えるその日を待ちわびとった。
そして手紙に綴られた帰省の日。
朝起きると少し身体が怠かった。
隣町への往診が終わり光の話をすることがなくなって、俺はそんな日々にも寂しさを感じとった。
やから、その寂しさを振り払うように仕事に没頭した。
けど、最近ちょい無理をしすぎたかもしれんな。
光は鋭いから、あんま心配かけんようにせんと。
そんなことを考えながら支度をする。
身体に付きまとう嫌な怠さに、気付かないふりをしながら。



いつもの場所で光を待つ。
手紙には正午頃に着くと書いてあったけど、俺はいつもそれより早くここで待つようにしとった。
まだもう少し時間掛かるかと思ったけど、光は思いの外早く待ち合わせの場所に現れた。

「光っ!おかえり」

「……ただいま、謙也さん」

「急に帰省できるなん珍しいなぁ。でもめっちゃ嬉しいわ」

ぎゅって抱き付いた俺を見上げて、光は微笑んだ。
微笑んでた、筈なのに。
胸がざわつく。
光の笑顔が酷く悲しげに見えて。
一瞬、そのわけを聞こうと思ったけど、光は何も言わずに俺に口付けをした。
触れるだけの軽い口付け。

「……光?」

「謙也さん、甘味屋いきましょ」

突然の光の行動、そして普段のよりずっと軽い口付けに思わず光の目を見たら、光は唐突にそう言った。

「……甘味屋?ふふっ、光はほんまに甘いん好きやなぁ」

「…………ん、好きです」

「光?」

「ほな行きましょ。あんま時間ないし、今日行きたいとこ、ぎょうさんあるんすわ」

くるりと前を向き歩き出した光に慌ててついていく。
目の前に居るのに、手を伸ばせば届く距離に光が居るのに。
なんだか置いて行かれそうな気がした。




光と一緒に町を回る。
いつもと同じはずやのに、光の横顔が妙に寂しげに見える。
行く先は全部、行き慣れた場所でもう幾度となく二人で通ったところなのに
光はその全てをしっかりと、まるで目に焼き付けるみたいに眺めとった。

「……謙也さん」

「…………」

「謙也さん……?」

あかん、ぼーっとしとった。

「どないしはりました?少し顔色が……」

「全然!なんともないで!」

訝しげな顔をした光は探るようにそう聞いてきた。
ちょっとだけ身体が怠いんは確かやけど、そんな酷い不調とちゃう。
明日には軍に戻ってまう光とちょっとでも長く一緒にいたい。


町を一通り回ったあと、そろそろ帰ろうかという頃に光はもう一ヶ所だけ行きたいとこがあると言うた。
そこは通い慣れたいつもの待ち合わせ場所で、俺は首をかしげた。

「行きたい場所ってここ?朝もきたんに、なんでここなん?」

「大事な話ある言いましたやろ?言うならここしかない思って。俺らの、始まりの場所やから」

そう言って光が振り返る。
その顔が酷く悲しげで、胸がざわつく。
嫌な予感がした。
光は一度目を閉じて、意を決したように再び目を開けて俺を見た。

「召集命令がきたんすわ、やから……」

「それって……」

光が言いたいことがわかった。つまり戦争や。光にとっては、初めての実戦……。
今までは遠く離れとっても必ず帰ってきた。それはどんなに厳しくても訓練やったから。
でも、今回は違う。ほんまに生きるか死ぬかの戦いになるんや。
それに光は実戦に参加するまでの訓練過程をまだ終了しとらんはず。
それなのにいきなり実戦やなんて、それだけ兵士が足らんってことで。

「謙也さん、俺たぶんもう…ここには…帰れへんと思うんです」

「な、何言うて…っ!」

わかってたことやった、いつかこんな日が来ることは。
光の仕事はお国のために命を懸ける仕事や。
いつか激しい戦いの中に身を置く時が来るって。
でも頭が真っ白になって、身体が震える。
心がついていかない。
けど光の次の言葉の意味は自分でも驚くほどはっきりわかった。

「俺にもしものことがあったらそん時は」

「止めや!そんな話っ!」

「もしも、もしもの話です」

もしものことなんて、はっきり言わんけどその意味くらいわかる。
光は今、自分が死んだ後の話をしようとしとるんや。

「例え話でもそんなん…っ、聞きたない!」

「謙也さん」

「嫌や!そんな遺言みたいなん聞かん!」

初めてやった。
光の言葉をこんな風に拒絶したんは。

「でも」

「今までやって、待っててって言うてくれたやんか!」

「せやけど俺……もう帰れるか」

「嫌や!聞きたないっ!!」

言葉だけやなくて耳を塞いで全身で光の言葉を拒絶する。

「謙也さん…………」

光がいなくなったあとの話なんて、そんなん例えもしもの話やとしても。

「聞きたない…………っ」

子供が駄々をこねるみたいに必死で絞り出した声は情けなく震えとった。
しゃがみこんだ俺に光はもうそれ以上何も言わんかった。
ただ黙って、俺を抱き締めてくれた。
わがまま言うてるってわかってた。
光があんなに必死に伝えようとしたことも聞かんと突っぱねて。
自分が情けないと思った。
けど、どうしても聞けんかった。

離れに二人きり、明かりもつけない部屋は日が落ちたらすぐ暗くなって、光が見えんくなって。
たった一人、真っ暗な世界に取り残されてもうたような気がして、それがほんまに怖かった。
光を感じたかった。

「光……抱いて、くれへんか…………次会えるときまで光の熱、忘れんくらい……」

抱いて欲しい、なんて、直接的に言うたんは初めての時以来やった。
初めての時、光を受け入れると告げたあの時。




「あっ、光…っ」

「謙也さん…っ」

「んぅっ、はっ、あぁっ」

光が本営に戻る前の最後の晩、俺らはこれからのことなんか何もかも忘れて、ただ互いを求めて抱き合った。
何度も光の腕の中で達して、何度も光の熱を受け止めた。
そして俺は喘ぐ声に隠して何度も言ってしまいそうになった言葉を飲み込んだ。
『行かんといて』その一言を何度も、何度も。



朝方、光は静かに家を出ていった。
俺に声をかけようか、迷っとったんはわかってた。
けど、光は俺を起こさんかったし、俺も光を呼び止められんかった。
今声をかけたら、何も伝えられん気がしたから。
ほんの少しでええ、時間が必要やった。
光がいた場所に手を当てると、まだ温もりがあった。
俺の身体にも、抱きしめてくれた光の熱がまだ残ってる。
なのに、光だけがもうここにいなくて。
この熱も、きっと一刻と持たずに消えてまう。

「嫌や…………」

この熱みたいに、光も消えてまう気がして。

「嫌やぁ……っ」

涙が溢れて止まらんかった。
泣いて泣いて、やっと涙が止まった頃には薄暗かった空も白み始めとった。




「…………っ」

光が行ってまう。
ちゃんと、見送ってやらな。
いつもみたいに。

光の家に行こうと思ったけど、なんとなく予感がした。
光はあの場所に来るんやないかって。
そしてその予感通り、光はその場所に居った。
柳の木を見上げる光の背中がやけに儚げに見えて、縋るように名を呼ぶ。

「光っ」

きっと今俺は泣き腫らした目をしとる。
そんな俺の頬に光の手が添えられて、その指がそっと目尻を撫でた。
その手に自分の手を重ねる。
今度こそ、光の言葉を聞くって決めた。
それがどんなに辛い言葉でも。
せやけど

「謙也さん…………いってきます」

光は別れの言葉は言わんかった。
光がそう言ったから、俺もいつものように、いつもの言葉で光を見送る。

「ん、いってらっしゃい…っ」







光は戦地へと発ち、また光の帰りを待つ日々が始まった。
俺は光に会えない時の苦しさを、患者さんと向き合うことで紛らわす癖がついとった。
それはもうずっと前から、光が軍に入ってからずっと。
そして光が戦地に向かってからは更にそれに拍車をかけとった。
昼間は仕事に打ち込んで、寂しくて寝られん夜はひたすら医学書を読んで勉強してた。
身体が訴える警告も気付かんふりして無視してた。
そうして幾月か過ぎて、身体が限界を越えたときにはもうなにもかも、手遅れやった。


気が付いた時には、目の前に見慣れた天井があった。
さっきまで往診に出とった筈なんに。
おかしいなって、思った矢先に激しく咳き込む。

「ごほっ、はっ、う……っ」

長くて苦しい咳が漸く止まって、口の中に鉄臭さが広がる。
口元を押さえていた手を離すと、掌に少し、赤い飛沫がついとった。
喀血や。心臓が凍ってく気がした。
この症状を俺は知っとる。
呆然と見つめとったら廊下から慌ただしい足音が響いてきた。
障子が開くと同時に視線を向けると、おとんが立っとった。
俺の手を取って、それを見たおとんは顔を強張らせながら問う。

「身体、どないや……」

その意味はわかっとる。
おとんは今、医者として俺に問いてるんや。

「……怠くて……熱っぽくて、咳が……」

具体的に症状をあげていく。
それは俺もよお知っとる病の症状や。
俺の話を聞き終わると、おとんは深く息を吐いて告げた。

「…………肺病や」

ああ、やっぱり。
どこか冷静に受け止めとる自分がおる。
『謙也』て、震えた声が聞こえて顔をあげると、おとんは俺の前で今まで1度も見せたことない涙をこぼして、俺を抱き締めた。
気付けなくてすまん、て。
それだけでわかる。
俺はもう、長くはないんや。
不思議と涙は出んかった。


俺の病の進行は想像以上に早くて、あっという間に身体は弱ってもうた。
サナトリウムに入る話もあったけど、それは断った。
俺はここで光を待つと決めたから。

肺病は、感染しとっても発症せん人も居るし発症する確率の方が低い。
やから、俺はきっとこうなる運命やったんや。
離れに籠って幾月経ったやろか。
毎日部屋から、あの木を眺めながら日々を過ごした。
いつかあの場所に光が帰ってくる、それを信じて。
いつの間にか季節も移りかわって、光がここを発って半年が経った。
最近は起き上がるんも辛くなって、部屋で寝て過ごすことが多くなった。
発作的な激しい咳も、喀血の回数も増えた。

朝、目が覚めて自分が生きとることを知る。
もう俺は、眠ったままいつ息が止まってもおかしくない身体や。

「死……か………」

目の前に迫って、改めて実感した。
死って、こんな怖いんや。
久々に、起き上がってぼんやりと庭を見つめる。
その先に、あの木が見える。

(せや、手紙……)

久しく書いていなかった手紙。
光が戦地に発ってから一度も書いとらんかった。
そもそも一ヶ所にとどまるわけやない光には、届けられんかったから。
けど、今すぐ手紙を書きたい衝動に駆られた。
机の引き出しから紙と万年筆を取り出す。
紙を机に置いて万年筆を手に持った、けど、その手には上手く力が入らん。
起き上がってるだけでも胸が苦しくて、呼吸が荒くなる。
なんとか手を動かして、長い時間を掛けて書いたのは、たった二文字。
“光へ”それだけ書くのに、何度も咳き込んで字を歪めた。

「こんな字で、光に手紙なん出せへんなぁ…………っ」

震えた字で、とても読めたもんやない。
歪んだ字が、視界をぼやかす涙でさらに歪む。

「…………っ!」

万年筆を握りしめて、文字を書きなぐる。
紙に皺が寄るのも、涙が落ちるのもインクが滲むのもいとわない。
やって、この手紙は出さへんから。
書いた文字は4文字、それだけ書くだけで息が切れて咳き込み、また血を吐いた。

「っ、はぁっ、ごほっ……っ、あいたい……っ!あいたい!あいたいよっ!光……っ!」

手紙に書いた文字と同じ言葉を叫びながら、その手紙を胸に抱く。
きっと俺は、もう間もなく命を終えるんや。
あの声を聞くことも、顔を見ることも、腕に抱かれることも、もう二度とない。

「待ってる、て……言うたんに……っ」

すまん、光。
俺、もう待てへんみたいや。

「ごほっ、ごほっ!ぅ……はっ、はぁっ、光……っ」

『また帰って来るときもここで待っとるからな』

せや……せめて最期は、あの場所で……



草履も履かずに表にでる。
足に力が入らんで、何度も転んだ。
ほんの僅かな距離やのに途方もなく遠くて、石や小枝で身体を傷付けたけど、あの場所に行きたい一心で、まともに動かない身体を引き摺って歩いた。
離れから見えるくらい近い距離やったのに、今の俺の身体にはこんなにも遠くなってしもたんやな。
何度も、何度も地面に身体を打ち付けて、咳き込んで血を吐いて。
漸く辿り着いた時には、もう意識は朦朧としとった。


光といつも待ち合わせする柳の木に背中を預けて、そのまま座り込んだ。
目が霞んでもうあんま見えへんけど、それでも空は何処までも青く澄んでて。
きっとこの空の下に光もおるんや。

「はぁ、ごほっ、ぅ……っ、ごほっ」

約束破ってもうて、ごめんな……光。

手から滑り落ちた紙が強い風に浚われて宙を舞った。

「あいたい……な……また、おまえと……」

この世では、もう会うことはできないけれど。
もしどこかでまた、お前と出会えたなら、もう一度恋がしたい。
誰かが呼ぶ声がする。
よく知っとる、愛しい人の声や。

「ひか…る…………」

その声に答えて名前を呼ぶ。
ほんの一瞬、光に抱き締められた時の香りを感じたあと、俺は静かに息を止めた


2015/01/08