退院の翌日から、謙也さんは今まで通り登校してきた。
覚えとらんのは俺の事だけやから、生活に支障はないようやった。
朝練にも普通に参加しとったし、入院している数日間毎日病院に通いつめとったから、俺との関係もはた目から見ればなんら変わりはない。
ただ、それはあくまでもはた目から見ればの話。




「謙也さん」

「財前、どないしたん?」

昼休み、俺は昼飯を持って謙也さんの教室にやってきた。
ちょうど授業が終わったところで、謙也さんは教室に居ってくれた。
部長とどっかに食べに行ってたらと思うと気が気じゃなかったからその姿を見付けた時は心底安堵した。

「昼飯、誘いにきました。」

「謙也、謙也は毎日財前と飯食ってたんやで」

「そうなん?」

部長のフォローもあってか、謙也さんは納得したように頷いた。
二人で行ってこいと部長に見送られて、俺達は3年の教室を出た。
向かった先は、俺等がよく行く場所の一つの裏庭。
当然のことやけど、謙也さんはそれも覚えてへんかった。
謙也さんにとって、俺は今恋人ではなくただの後輩。
どんなに打ち解けても、その温度差に胸が締め付けられる。

自業自得や…謙也さんをこんなふうにしたんは、俺なんやから。










あの日、前日部活の最中に喧嘩になった俺達は結局仲直りもしないまま部活を終えて。
でも謙也さんはそのきっかけを作ろうと俺に声を掛けてくれた。

けど、俺は意地になっていて、もーええとか投げ遣りな言葉を吐いて逃げようとした。
その後を追ってきた謙也さんに投げ付けた、あの言葉。

「謙也さんなんか――――――」


その瞬間の、泣きそうな顔が頭から離れない。
酷い事を言った、謝ろうと、すぐに思ったけどそれはできんかった。
俺が居たのは階段の踊り場で、俺を追ってきていた謙也さんが居たのは、その手前。
謙也さんはそこから足を踏み外して、転落した。
咄嗟に伸ばした手は謙也さんの手を掴む事ができず、空しく宙をかいただけ。


そして俺はあの日、謙也さんの中から消えてしまった。

何一つ、謝れないまま…







「財前?」

「え…?」

「なんや、辛そうな顔しとる…どないしたん?」

「……謙也さん、ごめんなさい…」

「? なんのことやねん?」

「いや、なんでもないです」

こんなんずるい、意味のない謝罪や。
ほんまの事を言わないまま謝っても、許されるわけないのに。
でもその許しを得るには、打ち明けなくてはならない。

「…ごめんな、財前……」

「え」

「絶対、絶対思い出したるからな」

「謙也さん…」

「忘れたままなんて嫌や。俺が財前にそんな顔させとるんやろ…?」

俺はこの人を傷付けたのに、この人はいつも優しい
こんなにも優しいこの人に、どうしてあんなこと言ってもうたんやろ…。
どうしてあんな悲しい顔をさせてしもたんやろ


俺は、無意識に伸ばした手で謙也さんの頬を撫でていた。
もう二度と、あんな風に傷付けたりしない、傷つけたくない。

「ざい……っ」

「謙也さん…俺、謙也さんのこと大事やから」

「……っ」

「謙也さんがしんどい思いするなら、俺のことなんか忘れたままでもええよ」

「…っ、嫌や!何でやねん!」

「その方が、謙也さんが幸せになれるなら…俺は…」

「……わけわからん…俺は忘れたままなんて嫌やからな!お前が忘れてろ言うても思い出すからな!!」

機嫌を害ねてしまったらしく、謙也さんは苛ついた様子で持っていたパンに噛り付いた。
俺はもうそれ以上何も言えなくて、俯くことしか出来ない。
そのまま暫く、沈黙が続いていたけど、不意に謙也さんが小さな声で呟く。

「俺は…財前にいつも辛そうな顔させとるな…」

「え…」

「目覚ました時も、部活中もさっきも…今もや…」

「……」

「せやから俺、ちゃんと財前と向き合いたい。俺も…その…財前のこと大切やから」

「謙也さん…」

「せやから…待っててくれるか?」

「はい…、待っとるから…いつまででも」

そう返事を返すと、謙也さんはキラキラ輝くような笑顔を見せた。





それから数日、謙也さんの記憶は戻らないままだけれど、距離は少しずつ縮まっていった。
いままでみたいに寄り道したり、休み時間に喋ったり、だから時々忘れてしまいそうになる。
俺は謙也さんにとって、ただの部活の後輩に過ぎないってことを。
謙也さんのやらかい唇に触れたくなる。
謙也さんの熱い身体を抱き締めたくなる。
好きやって叫んでしまいそうになる。


謙也さんを――――――――――――




「…っ」

「財前?どないしたん?」

「な、なんでも…」

見入っていた顔から慌てて視線を外す。俺は今何を…。





想像の中で、俺は何度も謙也さんに口付けをして、その身体を撫でて、謙也さんを抱いた。
そのたびに何度も陥る自己嫌悪。
謙也さんが好き、傍に居られるだけで、って思う反面。
謙也さんに触れたくて触れたくて堪らない気持ちが溢れてくる。
この腕に何度閉じ込めたいと思った事か。
こんなに、近くにいるのに。

「財前…」

「なんでもないです。」

「……そっか…なら、ええねん」





この時俺は、自分のことばっかで。
謙也さんがどんな思いでいたかなんて、ちっとも気付けんかった。

「謙也さん」

「…あの、財前…今日先帰るから…」

それは突然始まった。
謙也さんは、急に俺を避けるようになった。
次の日もその次の日も、謙也さんは俺と一緒にいるのを避け続けた。
なんで?と、聞こうにも、取りつく島もない。
俺が嫌いになったのか、うっとおしくなったのか。
謙也さんに思い出して欲しくて、いつもくっついとったから?
俺は、今の謙也さんにとって迷惑な存在なんやろか。


一人で歩く帰り道、考えるのは謙也さんのことばっかりや。
謙也さんと出会う前は、どうやって過ごしとったっけ……
居なかった頃のことなんてもう思い出せないくらいに、俺らは毎日一緒に居った。
でも、俺と居ることが今の謙也さんにとって苦痛なら、俺を思い出すことが苦痛なら
それなら、俺は…俺がしてあげられることは。
謙也さんを解放してあげることだけや。
いままでおおきにって、もう思い出さなくてもええって、そう言ってあげることだけ。
謙也さんには俺の事以外の記憶は全てある。
俺のこと一人くらい忘れてても、この先の人生何の支障もないんやから。
自分がどれだけ苦しくたって、謙也さんの心から俺が居なくなっても。
あの人が別の人と恋に落ちて、その人を愛しても。
謙也さんが幸せになれるなら。
俺は…それでもええ



謙也さんの幸せが、俺の幸せやから―――――







「謙也…どないしたん?財前となんかあったん?」

「白石…」

部活の後、謙也さんにさよならを言おうと探していると、校舎の裏庭から聞こえてきた二つの声。
探していた人物だとはすぐにわかったけど、その会話に自分の名が入っているのを聞いて思わず身を隠した。

「謙也さん…」

なんて答えるんやろ?
もう思い出すのめんどいって、そう言うんやろか…。

「喧嘩でもしたんか?」

そう問い掛ける部長に、謙也さんは黙って首を横に振った。

「なら、どうして…」

「嫌われたない…から…」

思いもよらない言葉が耳に入ってきて、一瞬思考が止まった。
てっきりもう俺のこと思い出すのなんか、嫌になったんやと思ってた。
でも謙也さんの返事は俺に対する拒絶ではなく、俺からの拒絶を恐れているようやった。

「俺、財前のこと全然思い出せへんし…もう一ヵ月近くも経つのに…あんなに財前に付き合うてもろたんに、なんも変わらんくて…」

「謙也…」

「毎日毎日、財前の時間もろて…いつか見限られるんやないかって…せやから、」

「ここ最近財前のことしつこく聞いてきたんはそれか」

部長に言われて、謙也さんはこくんと頷いた。

「アホ、あいつに限ってそれはないわ」




ほんまに、俺はアホや。
思い出さなくてもええ、なんて、謙也さんが一番言われたくなかったことやんか。

「それに…俺の気持ちがバレたら、きっとキモがられるし」

なんのことやろ。
そう思って、小さな謙也さんの声に耳を傾けようと身を乗り出した時。


パキッ





静かな裏庭に響いた乾いた音。
なんてベタな…と思うくらいの展開や。
これがドラマとかやったらアホちゃう、て毒づくとこやけど、紛れもなく現実でしかも自分がそれをやらかした張本人。
振り返った謙也さんは暫く真ん丸な目で俺を見つめて、突然急速に顔を真っ赤に染めた。
金魚のようにぱくぱくと音もなく口を開閉していた謙也さんは、数秒ののち漸く蚊の鳴くような声を絞りだした。


「い、いつ…から…」

「その、俺の事話し始めたとこから…」

「っ!?」

酷く動揺した様子で後退り始めた謙也さんに近付こうと一歩踏み出すと、謙也さんは弾かれたように踵を返して走りだした。

「謙也さん!」

後を追うと謙也さんは校舎に飛び込み階段を駆け上がる。
謙也さんが本気出して走ったら俺が追い付ける筈がない。
わかっていても、放っておけんかった。
距離は一向に縮まらず、見失わないようにするのが精一杯や。
そして長い追い掛けっこの末たどり着いた場所は、あの階段。
謙也さんは不意に、観念したように足を止めると振り返った。
踊り場の窓から差し込む夕日を背に俺を見下ろす謙也さんの目には、涙が光っとった。

「なんで…逃げるん…」

壊れそうなくらいに暴れる心臓と乱れた呼吸で、声を出すのもやっとやったけど。
謙也さんが泣いとる。その涙を止めたりたい一心で、足を前に動かした。

「謙也さん…」

「好きやねん!俺、財前が…っ」

「え…」

「キモい…やろ…男同士なのに…」

謙也さんは目をぎゅっと閉じて、拳を握り締めて震えとった。
まるで俺からの拒絶に耐えるみたいに身を堅くして。
そんなこと有り得ないのに、俺が謙也さんを嫌うなんて。

「キモいわけないやろ!俺はずっと前から謙也さんの事好きなんや」

「嘘…っ」

「嘘ちゃう!」

「嘘やっ!!」

再び踵を返そうとした謙也さんを追おうとしたその瞬間、謙也さんの身体がグラッと傾いた。

「謙也さん!」

「財前避け…っ」

避けるわけあるか。
今度こそ俺が守る。


「――――っ!」

謙也さんの身体を受け止めて、包み込むように抱き締める。
俺が居た場所は大して高い場所ではなく、床に倒れる前に謙也さんが庇うように俺の頭に腕を回したから頭も打たんかった。

「光っ!」

「謙也さん…怪我ない?」

「っアホ!!なんで避けへんの!?光になんかあったら俺は…っ」

「謙也さんのこと好きやから。守りたいって思うんは当然やろ?」

そう言うと、謙也さんは両目から大粒の涙を零した。

「嘘…」

「謙也さん…?」

「嘘…っ、嫌いやって言うた…大嫌いって…っ」


いつ、そんなん言うた?俺が謙也さんを嫌うなんて。






「謙也さん…記憶…」


俺が謙也さんを嫌いって言うたんは、あの喧嘩の時や。
本心やなかった。勢いで言うて、すぐ後悔した。

「光が言うたんやろっ!大嫌いって…俺なんかもうしらんって」

「あっちが嘘や。謙也さんを嫌いになるわけない」

ずっと謝りたかった。
あの喧嘩のことも、あの時の言葉も。
今、やっと。

「ごめん、ごめんなさい謙也さん…酷いこと言うた」

「光…」

「嫌いなんて嘘。俺は誰より謙也さんが好きや」

「…ほんま?ほんまに?」

「おん。ね、謙也さん?仲直り」

「…ん」

唇を合わせて、その感触に酔い痴れる。
漸く、俺達の長い喧嘩は終わったんや。











そして




「ほんっまにお前等は人に心配かけよって!!」

俺等は二人揃って部室で正座させられていた。
突然二人して消えたと思えば擦り傷と打撲を負って帰ってきたとなれば、まあ怒られてもしゃあないが。

「謙也にいたっては二度も階段から落ちよって…大怪我にならんったからええようなもののっ。お前はもうちょい落ち着いて行動しなさい!」

「面目次第もございません…」

「まあまあ、蔵リン。落ち着いて」

「思い出したんやし結果オーライなんちゃう?ほんまに人騒がせなやつらやな」

「そうねぇ、ユウくん心配し過ぎて後ろから思い切りどついたら思い出すかもって本気で言うとったもんねぇ?」

「こ、小春ぅぅぅぅ言わんといてぇぇぇ!!」

騒がしくなり始めた部室は、なんだか懐かしい風景やった。
騒ぎに紛れて、謙也さんにそっと囁く。

「謙也さん」

「うん?何、光」

「大好きやで」

「光…っ、うん、おおきに。俺も大好きや!」

謙也さんはそう言って、太陽みたいなキラキラした笑顔で笑った。
もう、絶対にこの手を離さない。
そんな想いを込めて、確かめるように手を強く握った。



To be continued…