ある朝目が覚めたら、眩しい笑顔がそこにあった。
彼は、ある日突然俺の前に現れた。
ふわふわの金糸の髪に、無邪気な笑顔、どこか懐かしい雰囲気。
その姿は俺より少し背の高い近い年ごろの青年の姿だった。
俺と出会った瞬間に、彼が言った言葉“光を幸せにしにきた”
彼は人を幸せにするために生まれたのだと言う。それが夢なのだと。
それが何故俺だったのかはわからないけれど、その言葉どおり彼はあらゆる力で俺を幸せにしようとしてくれた。
けれど俺には、そんな不思議な力より、彼と過ごす日々そのものが幸せで、大切で。
失いたくないものだから――――――
講義が終わりバイトが終わって、いつものように帰路を歩く。
その途中、視界に入った自分の住むマンションの部屋を確認する事が、俺の日課。
明かりの灯った部屋を見て、俺は1人微笑んだ。それは彼が俺を待っていてくれている証。
今日も彼は俺の帰りを待っている。そう確信して、扉を開けた。
「光、お帰り!」
「ただいま、謙也さん。」
すっかり慣れた様子で、謙也さんは俺を迎えに玄関に走ってきた。
ご飯出来とるで、それとも先に風呂にする?
なんてまるで新婚夫婦みたいな彼の言葉に頬をゆるませながら、俺は「ご飯で」と応えた。
リビングに入るとテーブルの上には今日も美味しそうな食事が並んでいる。
ほんの数か月前まで夕飯はカップ麺か弁当かの生活をしていたのが信じられないくらいに温かい食卓や。
俺が椅子に座ると、謙也さんは自分もニコニコしながら向かいに座った。
すると謙也さんはふと、俺の左の耳元に目をやり不思議そうな顔をした。
「光、ピアス一個どないしたん?」
そういえば、と自分の耳たぶに指を当てる。
普段そこに3つあるピアスが今は2つしかない。
「ん?ああ、昼間外した時踏ん付けて壊してしもたんやけど…」
「見して」
壊れたピアスは金具が潰れて使い物にならへん。
結構気にいっとったんやけど。
「直そか。」
「直るんすか?」
「光が望むなら。」
俺が頷くと、謙也さんは目を閉じて掌に乗せたピアスの上にもう片方の手をかざした。
すっとその手がのけられると、掌の上のピアスは元通りになっとった。
「ん」
「おおきに、謙也さん」
謙也さんは満足そうに、ふわりと笑った。
謙也さんの不思議な力を見るのはこれが初めてやないから今さら驚かないけれど。
この力を見ると、やはり謙也さんはただの人間やないんやと思い知らされる。
そもそも、彼は人間やない。
元は、どこかの人形師に作られた人形なんやと、謙也さんは初めに言った。
まさかと思ったけれど、彼の身体に触れてみて、それは本当なんやと知った。
自分も体温が低いと言われることはあるけれど、それは平均的に見ての話や。
彼には、体温がない。抱き締めてみても鼓動も聞こえない。
黙っていれば呼吸もしていない。人が生きるために持っている機能を、彼は持っていない。
そして彼には、もう一つ持っていないものがある。
それは自分を幸せにする力。
俺を幸せにするために、彼は色々な力を使ってくれる。
それはこうした心のこもった料理だったり、所謂魔法と呼ばれるものだったり様々や。
けれど、謙也さんはそれを自分には使えない。
ほんまに、他人の幸せばかりを願っとる、アホみたいに優しい人や。
人間でなくても、謙也さんは温かい心を持ってる。
せやから彼の姿が男だとか、人間じゃないとかなんてもう関係なく、俺は謙也さんを好きになってしまった。
けど、謙也さんはきっと違う。
謙也さんがここに居る理由が俺を幸せにするためというのなら、俺が幸せになったら謙也さんの役目は終わる。
そうなったら謙也さんは生まれた所に帰るんやろか。
それとも次の誰かを探してどこかに行ってしまうんやろか。
謙也さんの言う使命は俺を幸せにすること。
なら、俺が幸せにならなければ、謙也さんはずっとここに居てくれるんやろか。
なんて自分勝手なことを考えて、その考えを振り払った。
謙也さんには夢がある。
俺を幸せにしたら、謙也さんは一個だけ自分の夢が叶うのだという。
自分を幸せにする力を持たない彼が、唯一自分のために力を使うことが出来る時。
それを潰してまいたくはない。
けれど俺は今が幸せで、それは彼が居なくなったら終わってしまう幸せや。
その日はいつかくるのだろうか。それとも一生こないのだろうか。
『謙也さんは、俺が幸せになったらどうするんすか―――?』
その一言が、怖くて聞けない。
彼の言う“幸せ”の定義がわからない。
だって俺の幸せは、謙也さんが居なければ成り立たない。
もし、俺の中にあるこの一つの願いが叶う事が幸せの到達点なら、その日は永遠に訪れないかもしれない。
いつか別れが訪れるとしても少しでも長く居られるのなら、それなら俺は、この願いは叶わなくていい。
このささやかな幸せに、少しでも長く浸っていたい。
謙也さんとの生活はそれはそれは幸せで、家に帰る度に、部屋に明かりが灯っているのを見るたびに嬉しかった。
しかし、それと同時に不安にだった。
俺の希望を叶えることで、ある日目覚めた時彼が居なくなっていたらどうしよう。
今日帰ったら部屋に明かりが点いていなかったらどうしよう。
彼が居なくなっていたらどうしよう。
そんなことばかり考えて。
いつしか俺は、謙也さんに願いを叶えてもらう事が怖くなっていた。
俺の胸を幸せが満たしていくのが怖い。
何がきっかけでその時が訪れてしまうか、俺にはわからないから。
謙也さんが不思議な力を使うたびに、別れが近づいてくる気がして。
いつの間にか、飯を作ってもらうこともなくなっていた。
適当に理由をつけて食べて帰ったり、弁当を買って帰ったり。
謙也さんの作る温かい食事が好きなのに、謙也さんの笑顔を見ながら食べる食事が好きなのに。
俺は何をしとるんやろ。
謙也さんとの毎日は、もっと楽しくて輝いていて、こんなもんやなかった筈なのに。
「光…お帰り…」
「…ただいま」
いつものように迎えてくれる謙也さん。
それは出会ったあの日から変わっていないのに、彼の顔から眩しいくらいの笑顔が消えたのは、いつからやったか。
曇った表情、それでも、彼は精一杯笑って俺を迎えてくれる。
でも、俺が好きやった笑顔は、こんな悲しそうな笑顔やない。
こうなったのは俺のせいや、それはわかっているのに。
俺は謙也さんを、幸せにしたりたいのに。
「光っ」
目もあわせないまま横を通り過ぎようとした時、不意に腕を掴まれた。
「怪我……しとる」
「ああ、さっきなんかの金具に引っ掻けて」
それは小さな傷だった。
少し血が滲んでいるけれど、たいしたことない。
「今治したるっ!」
謙也さんの口からその言葉が零れたのを聞いて、俺は思わずその手を振り払った。
「あ……、」
謙也さんの顔が、今にも泣きそうに歪む。
彼は流す涙は持っていないけれど、俺にはその顔が、泣いているように見えた。
「すみません…、ええです。すぐ治りますさかい、力は使わんで…」
そういった俺の腕を、謙也さんはもう一度そっと掴んだ。
「ほな…、せめて、手当てだけでもさして…」
黙ってはいたけれど、手を振り払わない俺を見て承諾と捉えたのか、謙也さんは救急箱を持ってきて甲斐甲斐しく手当てを始めた。
静まり返った部屋に、小さな物音だけが響いていたのも束の間。
謙也さんは道具を箱に戻して蓋を閉めると、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、俺じゃ光を幸せになんかできんのやな…」
形の綺麗な唇から漏れた、哀しげなその声に、いろんな想いが溢れだす。
違う。俺は幸せやった。謙也さんが来てからの毎日は、確かに幸せやった。
せやのに、俺は自分でその幸せを手放そうとしとる。
そして、謙也さんを傷付けとる。
「謙也さん…っ」
「なぁ、光。光が望むなら、俺は消えるで。」
「っ!?何言うてはるんすか!俺は…そんな風に、居なくなってほしいなんて思ったことは一度もない!!」
「ほな俺は、どないしたらええの!?俺、光になんもしてやれてへんやんか…っ!」
魔法なんていらない。
他の願いなんか叶わなくてええ。
俺はただ謙也さんと過ごす温かい日々があれば、それでええんや。
謙也さんが居なくなったら、俺は幸せになんかなれないのだから。
それで良かったのに―――俺はその日々を今日まで自分で遠ざけてきた。
その幸せが心を満たしていくのが、彼との別れに近づく気がして。
だけど、そのために俺は謙也さんを悲しませたんやないか。
謙也さんを傷付けたんやないか。
「魔法なんかいらない。謙也さんが居ればええ…謙也さんと、ずっと一緒に居りたい。」
“ずっと傍に居て欲しい”それを拒絶されるのが怖くて、今日まで口にできずにいた。
けど、俺はこんな日々を過ごしたかったわけじゃない。
謙也さんと一緒に笑って向かい合える日々が、俺が何より欲しかった幸せで。
それを、自分で遠ざけた。
謙也さんとの楽しかった日々を、謙也さんの笑顔を自分で遠ざけた。
まだ取り戻せるだろうか。
「謙也さんが笑って傍に居ってくれはったらそれが俺の幸せなんや。俺は、謙也さんが好きなんや…!」
「……嘘…嘘やろ…?ほんまに…?やって俺、人形やで…?」
「構へん。俺は、どんな謙也さんでも好きや。あんたやから好きなんや。」
この手を離したくない、ずっと一緒にいたい。
もう一度、あの楽しかった毎日に帰りたい。
そして出来るなら、俺が謙也さんを幸せにしたい。
そう思っていたら、謙也さんが握ったままだった腕を掴む手に力を入れた。
その手が、僅かに震えとる。
「謙也さん?」
「嬉しい…っ光…っ、俺も、光が好き、ずっと、ずっと好きやった。」
目から落ちた透明な雫とともに、謙也さんの口から俺が何よりも欲しかった言葉が零れた瞬間、目の前が真っ白になった。
「な…っに!?」
「光!!」
白い光は謙也さんの身体を包み込んで、俺はこの光が謙也さんをどこかへ連れていってまうと思った。
「嫌や!謙也さんっ!!」
無我夢中で腕を伸ばして、謙也さんを抱き締める。
連れてなんていかせない。
やっと想いが通じ合ったんや。
腕の中の謙也さんが消えてしまわないように、思い切り抱き締める。
謙也さんも、応えるように俺の背中に腕を回した。
互いに強く抱き締め合っているうちに、だんだん光は消えていく。
けど、腕の中の温もりは消えていない。
俺の耳に届く鼓動は、2つ。
「え…?」
くっついた胸から2人分の鼓動が溶け合うように一つになっている。
けれど、それは本来なら有り得ない事で、それが聞こえるという事は。
「謙也、さん…?」
「びっくりした…元に戻されるかと」
「謙也さん…、あんた……」
「おん?」
「これ!」
俺は謙也さんの手をとって、その胸に押し付けた。
謙也さんの胸からは今も一定の速さで響く音が聞こえとる。
その意味を、彼も漸く理解したらしい。
「え…俺、人間になっとる…?」
「なんで…?」
「そうか、ほんまに叶ったんや。」
謙也さんの言葉の意味がわからなくて首を傾げれば、謙也さんは恥ずかしそうに口を開いた。
「俺の、もう一つの夢…人間になりたい。やってん。」
「なんで…人間に?」
「人間になって、光と同じになりたかった。そんで光に、…告白したいて思っとった。人形のままじゃ、絶対に受け入れて貰えないと思ったから…けど、光は人形の俺でも好きになってくれたんやな……」
嬉しい、そう言ってはにかんだ謙也さんの顔は、俺の一番好きな眩しい笑顔やった。
「せやけど…、夢が叶ったら居なくなってまうんやないん……?」
「え?俺そないなこと言うたっけ…?」
言うてへん。確かに謙也さんは一言も言うてへんかった。
俺が一人で恐れてただけや。
彼がある日突然居なくなってしまう気がして。
「俺は最初から、光のためだけにここに来たんや。他の誰かのところになんか行くつもりないで。」
「謙也さん……聞いてええですか?」
「おん?なんや?」
「謙也さんはどうして、俺のところにきてくれたんですか?」
謙也さんは少しきょとんとした後、懐かしいことを思い出すように柔らかく微笑んだ。
「俺ずっと昔になぁ、光と一緒に居ったんや。」
それは、とても遠い昔のこと、彼はある人形師の手によって作られた小さな人形だったという。
そして様々な人の手に渡り、幼い俺の元にやってきた。
それを俺も覚えている、幼い頃とてもとても大切にしていた、彼がその人形だったなんて。
ある日突然なくなってしまった、あの人形。
あちこちに持って歩いていたから、失くしてしまったのだと思い散々泣いた。
「光に大切にしてもらって、俺に心が生まれたんや。」
「でも俺は……っ、あんたを失くしてしもた……」
「ちゃうよ、あれはな」
長い時間の中で彼は心を持って、一つの夢を持った。俺を幸せにしたいって夢を。
けど、あの時の彼にはそんな力はなかった。それで神様に祈ったのだという。
俺を、幸せにする力が欲しいって。
「なあ、覚えてる?光が俺を連れて遊びに行った神社。そこにな、縁結びの神様が居ったんや。」
「縁結びの……?」
「人形の俺のこんな願い事聞いてくれるなんて、けったいな神様やろ?でもそのおかげで、こうして光と居れるんやけど。」
そうして彼は、長い長い時間をかけてあの不思議な力と、人の姿を手に入れた。
それでも本当に人にはなれなかったけれど。
そうして、彼はその姿でもう一度、俺の前に現れた。
「それで、その時俺はもう一つ夢を持っとった。それが、光と同じ人間になって、光と恋をしたいやった。」
でも神様は彼に言うた。
“自分には姿を与えることはできても、本物の人間にすることは出来ない”と。
そしてこうも言った。
“けれどもし、人形と人間が恋をして、その想いが通じ合うなんてそんな奇跡が起きたなら、人形が人間になることだってあるかもしれないね”と。
「ほな謙也さんの言うてた一個だけ夢が叶うって、人間になりたいってこと?」
「いや、ちゃうよ。俺の夢は、光が幸せになることやもん。」
「え、ほな、俺が幸せになったら叶う夢って……」
俺の幸せってことなんや。
なんてアホな人、そしてなんて優しい人なんやろ。
ほんまに謙也さんは自分の幸せより、俺の幸せを願ってたなんて。
「せやから俺が人間になれたのは、ほんまの奇跡。神様だって出来なかったんやで。」
そう言って笑う謙也さんを、俺は胸に抱き寄せた。そしてそのまま、強く抱きしめる。
「ひ、光っ!?」
俺は謙也さんと離れたくなくて、謙也さんが他の誰かの元へ行ってしまうのが怖くて、そのために謙也さんをたくさん悲しませた。
だから俺はこれから、その悲しみの分、いやそれ以上にもっとたくさん、謙也さんを幸せにしたい。
「謙也さん、たくさん悲しい思いさせて、ごめんなさい」
「光……」
「謙也さんはもう、自分の幸せを探してええんやで」
そう言うたら、謙也さんは涙を零して、腕の中から俺を見上げた。
「ええんかな…俺、こんなこと願ってええんかな……っ」
「ええんですよ。謙也さんは、自分の幸せを願ってええんです。」
「……ほな、言うてもええかな?」
「言うてください。」
抱きしめていた腕を緩めて、謙也さんと向かい合う。
涙に濡れた青い瞳が、俺の姿を映しとる。
謙也さんはすっと息を吸うと、その言葉を口にした。
「光、俺は、光が好きです。俺と恋をしてくれますか?」
「俺も、謙也さんが好きです。喜んで。」
謙也さんは、今までで一番眩しい笑顔で笑ってくれた。
その笑顔を俺が守っていきたい、これからもずっと。
そして、俺が謙也さんを幸せにしたい。
「幸せにします。」
「俺、充分幸せやで。」
「こんなん足らんっすわ。もっともっと幸せにします。」
謙也さんの手を掴んでぎゅっと握る。
温かい手のひらは柔らかくて、人形だった時とは違う。
それは紛れもなく、人の肌の感触。
「光って、こんなに手ぇ冷たかったんやな。」
「謙也さんが温かすぎるんすわ。」
温かくて優しい、俺の大切な人。
謙也さんが俺にくれたたくさんの幸せを、これから俺はこの人に与えてあげるんや。
そう胸に誓って、その柔らかい唇に自分の唇をそっと重ねた。
To be continued…
2012/3/4